凋落していく日本の中で「このような人」は何をどうしても格差の下に落ちる?

凋落していく日本の中で「このような人」は何をどうしても格差の下に落ちる?

社会がまったく成長せずに貧困層が増え、人々が余裕を失ってしまうようになったら、「俺たちも苦しいのだから、自分の力で何とかしろ、甘えるな、自己責任だ」という冷たい態度になっていく。今の日本はまさに底辺の人たちを放り出す社会になっているようにも見える。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

教育を受けても知的能力が向上しない人が存在する

社会の底辺でいろんな人たちに会っていると、落ちるべくして貧困に落ちてしまった人も大勢いるという残酷な現実が見えてくる。運動能力も人によって違うし、知的能力もまた人によって違う。

致し方ないことだが、この知的能力は向上できない人も中にはいる。「モノを知らなければ勉強すればいい」という人もいるのだが、その勉強が身につかない。「努力しろ」といっても、努力できること自体が才能の産物なのだ。

教育は個人の知的能力を「必ず向上させる」という一般的な認識は、間違っている可能性がある。統計によると、教育を受けても知的能力が向上しない人が存在することは明らかなのだ。

遺伝的要素で運動能力が向上しない人がいるのと同様に、遺伝的要素で知的能力が向上しない人もいる。それは、誰もが知っていることである。教師も学生もそれを口にすることはないのだが、もともと「努力してもどうにもならない人」は珍しくない。

この結論は残酷であるが、避けて通れない真実である。

教育は社会的地位や収入、キャリアアップなどの重要な要素であることは間違いない。だから、知的能力は高ければ高いほど社会的な恩恵を受ける。そのため、人々は少しでも社会で有利な立場に立てるように勉強する。

しかし、個人の知的能力は限界がある。IQの低い人が勉強したらIQの高い人になれるというのは間違いで、遺伝的な限界があり、人はその範囲内でしか向上することができないのである。

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高度情報化社会についていけない人はどうなるのか?

統計的に見ても、素晴らしい教育カリキュラムがある学校で教育を受けている学生の中にも、知能指数や学業成績が向上しない人が一定数存在する。彼らにとって、教育は人生を変えるきっかけではなく、むしろ失望や挫折をもたらす。

彼らにとって教育は「やっても無駄だ」という事実の確認になるだけだからだ。

「教育が個人を救う」というのは単純化された幻想であり、個人のもともと持っている遺伝的能力が低ければ、努力は役に立たないというのが現実なのだ。

社会に出ると、その遺伝的能力の差が歴然とした経済格差になる。

受けた教育を吸収できる知的能力の高い人は、社会に出ても高収入・社会的地位・キャリアアップの機会を得やすくなる。一方で、教育から見放された人は、これらのメリットを受けることができず、社会に出ても不利になるばかりだ。

知的能力の低さが、そのまま経済的貧困や社会的排除に直結する。

仮に企業内で職業教育を受けても、物覚えが悪かったり職業的スキルをうまく身に付けることができないと、単純労働に追いやられていくかクビにされる。何とか得られる仕事があるとしても、それは間違いなく低賃金だ。そのため、知的能力の欠如によって貧困に固定されてしまう。

結局、現在の社会は高度情報化社会であり、知的能力が高い人の方が徹底的に有利になるようにできている。こうした社会的環境では、社会の高度化についていけない人はどん底《ボトム》に落ちるしかない。

私が社会の底辺で出会った女性たちの少なからずはそうした傾向にあった。(政治家・官僚には想像できないほど深いどん底にいる風俗嬢が救えない理由とは

彼女たちは、もともとの知的能力の上限が低かったせいで、必要な職業に就けなかったり、十分な収入を得られなかったりしており、貧困や社会的不平等の連鎖に陥ってしまっている。

それは、非常に悲しい姿でもある。(歌舞伎町のストリート売春の現場に立ってはいけない女性が立つようになった

歌舞伎町のストリート売春の現場に立ってはいけない女性が立つようになった(ブラックアジア会員制)

社会的な行動を起こすこと自体が難しい女性もいる

知能指数を見ると、大半の人は「平均」に位置している。しかし、平均よりも「高い人」も存在すれば「低い人」も存在する。

確かに知的能力は「ある程度」まで改善可能であり、適切な支援や教育、環境の改善によってそれは向上させることができる。しかし、自分の遺伝的能力以上に向上することはない。

その上限が低い人は、それが遺伝的な限界なのだ。それは批判すべきものではないし、まして自己責任とはまったく関係ない。努力も関係ない。

いつだったか「身長が170センチないと人権ない」と言って大批判を浴びた女性がいたが、身長が低いというのは本人の努力とはまったく何の関係もなく、努力でどうにかなるものでもない。身長は遺伝的要素が決定している。

知的能力もそれと同じと見るべきなのだ。彼らがどん底に落ちているというのは高度情報化社会では必然である。そして、それは彼らのせいではない。努力して何とかなる人もいるのだが、何ともならない人もいるという「当たり前のこと」が現れているに過ぎない。

彼らはまわりのサポートがなければ社会でうまく生きていくことができず、貧困や転落に巻き込まれていく。

普通の人なら、生活が成り立たくなりそうだったら、その前に「家族や行政に助けを求める」とか「福治事務所に自分の窮状を説明する」とかして、手を尽くすだろう。しかし、知的能力に限界があれば、そうやって社会的な行動を起こすこと自体が難しい。

生活保護の申請も難しいし、その前に行政に助けを求めるということに思い至ることも難しい。そのため、なす術もなく底辺に落ちていき、落ちたら這い上がれない。そうなるのが、このタイプなのである。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

凋落していく日本の暗部は深くなっていく一方である

政治家はよく「格差解消を!」とか「ひとりも取りこぼさない社会制度」みたいなキレイ事を訴えては当選しているのだが、それを聞くたびに私は今まで出会った底辺の女性たちの顔を思い浮かべてため息をつく。

底辺に落ちて自力では絶対に這い上がることができない女性たちや、仮に救いがあったとしてもそれを活かすことができずに再び貧困に転がり落ちる女性たちは、何をどうしても格差の下に落ちてしまう。取りこぼしされてしまう。

「貯蓄から投資へ」と上級国民の政治家は言うが、そもそも底辺を這い回っている人たちは肝心な貯蓄すらもできないし、生きるための基本である衣食住すらも確保できない。それくらい底辺なのだ。

社会が経済成長に沸き立ち、人々が豊かであるうちは、こうした社会の底辺に落ちてしまう人たちを見ても「そういう人たちもいて当然だし、社会全体で面倒を見よう」という包容力がある。

しかし、社会がまったく成長せずに貧困層が増え、人々が余裕を失ってしまうようになったら、「俺たちも苦しいのだから、自分の力で何とかしろ、甘えるな、自己責任だ」という冷たい態度になっていく。

今の日本はまさに「俺たちも苦しいのだから助ける余裕なんかない。自分で何とかしろ」と、底辺の人たちを放り出す社会になっているようにも見える。

それは、人間心理としては仕方のないことなのかもしれない。誰もが苦しくなっているのだから、自分が優先になるのは仕方がない。ただ私は、人々が完全に余裕をなくして弱肉強食になってしまっている社会の姿に寂しいものを感じている。

今、社会の底辺では「境界知能」と呼ばれている女性たちや、知的障害が疑われる女性たちが、売春や風俗の世界に落ちているのが当たり前になっている。これからますます社会も貧困化し、底辺の荒廃が広がっていくと思うと憂鬱になる。

凋落していく日本の暗部は深くなっていく一方である。

『暗部に生きる女たち。デリヘル嬢という真夜中のカレイドスコープ(鈴木 傾城)』
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