転落したのではなく、最初から努力も向上心もなく社会のどん底に落ちる人もいる

転落したのではなく、最初から努力も向上心もなく社会のどん底に落ちる人もいる

知能に問題があるわけでもないのに、本当に「何もしない何もできない人」が世の中にいる。そういった人たちの一定数が、必然的に貧困に落ちていく。しかし現代社会は、それを指摘するのは一種のタブーでもある。「救済できない人がいる」というのは不都合な事実なのだ。(鈴木傾城)

やるべきことを何一つしないで困窮するタイプ

最近、私はアンダーグラウンドの知り合いよりも表社会のそれなりに知名度や肩書きがある知り合いが増えてきたのだが、彼らの誰もがコミュニケーション能力が高く、向上心もあり、いろんなことを考え、自発的に動いていることに驚きがある。

世間に知られている人たちの努力はやはり半端なものではない。

彼らは「継続は力なり」のような言葉を座右の銘にして、よく考え、よく働き、着々とキャリアを積み上げて長期的視点で働いている。みんな立派で良くやっていると思う。

私自身はスラムや貧困地区をうろついて長く生きてきた人間なので、彼らとは対極の世界にいたとも言える。

どん底《ボトム》の世界では、向上心を持った人ばかりではないのは事実だ。そこでは、遺伝的に、性格的に、気質的に、どうしても「やるべきことをやらない人」がいくらでもいる。

努力すれば何とかなる局面でも、努力しないのでなし崩しに落ちぶれていく。そして、必然的に社会のどん底にまで行き着く。

つまり貧困に転がり落ちたのは、社会が悪いのではなく、出自が悪いのではなく、親が悪いのではなく、環境が悪いのでもなく、病気のせいでもなく、ただただ「本人が悪い」と言うしかない人が存在するのだ。

運の良し悪しが人生を決めることもある。しかし、それ以前に「やるべきことを何一つしないで困窮するタイプ」が世の中にはいる。

働くことが嫌いで、面倒なことも嫌いで、耐えることも嫌いで、コミュニケーションすることも嫌いで、頭を使うことも嫌いで、努力することも嫌いで、生活が危機に瀕しても極限まで何もしない。

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落ちるべくして社会の底辺に落ちる人も存在する

社会のどん底にいる人は一様ではない。才能と向上心と努力の塊のような人でも、何らかのきっかけで社会の底辺にまで転がり落ちることがある。

たとえば、事業家が資金繰りのミスで立ち直れないほどの損害を抱えたとか、共同経営者に騙されたとか、深刻な病気になったとか、家族との関係に問題が起きたとか、いろんな原因で信頼や財産をすべて失うようなことは珍しくない。

芸術や表現に関して溢れるような才能があっても、それで一生を支えられるとは限らない。金融リテラシーに欠けていたら、いくら芸術の才能があっても生活は困窮してしまう。

他にも、アルコールやドラッグで身を持ち崩したとか、浪費が止まらなかったとか、世の中にはいろんな転落があるのだ。(マネーボイス:なぜ年収数億円の有名人が破産する?私たち庶民にも参考になるたった1つの防衛策=鈴木傾城

しかし一方で「転落した」のではなく、最初から努力することも向上心を持つこともないまま、落ちるべくして社会の底辺に落ちる人も存在する。まさに「自業自得」という言葉が、そっくりそのまま当てはまる人である。

やるべきことをやらない。守るべきものを守らない。踏ん張らなければならない時に踏ん張らない。

「もう少し向上心を、もう少し努力をしたら何とかなる」とまわりから思われ、指摘され、更生のアドバイスを受けるのだが、それでも向上心も努力も持てずに為すがままに生きる。だから、どん底まで落ちる。

いくら救済の手を差し伸べても、その効果は一時的で限定的だ。救済が切れると再び落ちる。自分では何もしないので、自力では浮上できない。そのため、どこまでも底辺をさまよい歩くことになる。

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感心してしまうほど向上心が欠けている

社会の底辺では、パチンコ屋でタバコをふかしながら「金がたまらない」と言い、仕事を探す努力もしないで「金に困っている」という人もいる。あるいは朝から大酒を食らって、仕事もしないで「仕事がない」という人もいる。

悪癖を指摘されてもそれを止める努力をするわけでもない。誰かに止めさせられてもまた悪癖に戻る。第三者が必死で仕事を見つけてあげて仕事に就かせても、遅刻や無断欠勤をしたあげくに勝手に辞めてしまう。

もちろん、本人が一番困ることになるのだが、本人よりもまわりの方がやきもきして世話を焼くことも多い。しかし、何をしても本人が努力もやる気も見せないので何ともならない。

たとえば、普通の人には、家賃が払えなくなるとか光熱費が払えなくなるというのは「一大事」である。そのため、何としてでも金を集めるために努力する。光熱費が払えないというのは、命に関わることだからである。

しかし「困った」と思いながらも、特に何もしないでその日を迎える人も世の中にはいる。破滅が分かっていても何もしないのである。そこを乗り越えなければ終わりだと分かっていて乗り越えない。

ほとんどの場合、仕方がないので親が泣く泣く助けるのだが、助ける人がいなければ最終的にはホームレスにまで到達する。しかし、それでも本人は面倒臭がって何もしない。

感心してしまうほど向上心が欠けている。いまだかつて一度も自分の人生で向上心を持ったこともないのではないかと思うほど向上心がない。

「まずいことになった」というのは分かっているのだが、そうなった原因を究明し、反省し、対策を立案し、解決に向けて実行するという基本的な方針が人生にない。

そんな基本方針があれば最初からどん底にまで落ちることはないのだが、どん底に落ちても何もしないというのが彼らの特徴でもある。

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何もできない人を助けるにも限度がある

彼らは遅かれ早かれ困窮する。かと言って、彼らは助けを求めることもない。なぜなら、困ったから何とかしようとする発想そのものがないからだ。今までそうしたこともないのでコミュニケーション能力も備わっていない。

そう言えば、社会の見えないところでは、絶望的なまでにコミュニケーション能力が欠けている人も大勢いる。

2018年、長期間の引きこもりで親が死んで保護された神奈川県金沢区の男性は、もはや「話す」ということさえもできなくなっていたので筆談をせざるを得なかった。コミュニケーション能力が完全に欠落してしまったのである。

社会のどん底にはある一定数でこのようなタイプの人たちがいて、だからこそすべてを失って、どん底を徘徊する。

本人の努力ではいかんともし難い苦難に見舞われて転落した人と、最初から何もしないで落ちるべくして落ちた人が貧困社会の中に混在している。

社会で生きる力が備わっていない人であっても、全員が全員ともホームレスになって困窮するわけではない。親が何もできない子供を許容する場合、親が一生涯養うので彼らは何事もなく生きて死んでいくことになる。

しかし、助けてくれる人がいなければ、あっと言う間に社会のどん底に落ちていく。

多くのNGOは、こうした人をさえも救済しようと手を差し伸べる。しかし、ほとんどは徒労に終わることになる。最終的に自立できるだけの力が備わっていないので、助けても助けてもずるずると駄目になるからだ。

何もできない人を助けるにも限度がある。そのため、救済はやがて途切れて、再び社会の底辺に向かって沈没していく。

こうした人々は、いつの時代でも、どこの国でも、どんな社会システムの元であっても、性別も関係なく存在する。いかに社会システムと福祉を充実させても、何ともならない人であるとも言える。

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「何もしない子供たち」を支えることができくなる

知能に問題があるわけでもないのに、本当に「何もしない何もできない人」が世の中にいる。そういった人たちの一定数が、必然的に貧困に落ちていく。しかし現代社会は、それを指摘するのは一種のタブーでもある。

貧困撲滅という美しい社会システムの構築には「救済できない人がいる」というのは不都合な事実である。それを認めてしまったら、貧困層を救済する大義名分が消えてしまうかもしれないからだ。

また、自業自得で救えない人がいると社会が認識してしまったら、救えるはずの貧困層も「放っておけ、どうせ救えないのだから」という話になってしまう危険がある。そのため、「本人の性格・気質のためにどうしても救済できない人がいる」という事実はやんわりと隠される。

社会福祉が充実した社会では、こうした「最初から努力もしないで、為すがまま生きてどん底に落ちた人」も救済できる。社会が余裕があり、家庭に余裕があったら、彼らは目立たずに救済されるのだ。

しかし、社会にも家庭にも余裕がなくなれば、いよいよ彼らは放置されることになる。

最近、コロナ禍で多くの人が自粛を強制されているので、目立たなくなってきているのだが、8050問題はそんな社会情勢の裏でも着々と深刻化している。「80代の高齢化した親と50代のひきこもりの子供の共に困窮化」を8050問題と呼ぶ。

ひきこもった子供たちというのは、自分で努力して世の中を切り拓くのではなく極限まで親に依存して生きていくのだが、親も高齢化して「何もしない子供たち」を支えることができくなってきているのだ。

かと言って、少子高齢化で社会保障費が膨れ上がって四苦八苦している政府も余裕があるわけではない。コロナ禍では2020 年度 175 兆円という未曾有の財政出動を政府は行ったが、ますます政府は緊縮財政に走って社会保障費を切り詰めようとするだろう。

そのため、破滅が分かっていても「何もしない、できない」人は、今後は家庭からも社会からも見捨てられるのではないか。そんな光景が社会のどん底に出現するのではないか。そのような動きが社会の底辺を見ていると感じ取れる。

ボトム・オブ・ジャパン
『ボトム・オブ・ジャパン 日本のどん底(鈴木 傾城)』

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