どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのかは、よく知っておく必要がある

どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのかは、よく知っておく必要がある

人間は堕ちるところまで堕ちても、自殺しない限りは「仕方なく」でも生き続けることになる。だから、今まで清潔で安心な環境で生きていたとしても、いざとなったら誰でも路上生活者となっても生きることができるのかもしれない。しかし、誰でも「ここまで堕ちたくない」と思うレベルがある。自分にとっては、それがいったいどこまでなのか……。多くの人たちが、そういうことを考えなければならない時がやってきている。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

「自分はどこまで堕ちても耐えられるのか……」

2020年。中国発コロナウイルスのパンデミックで、世界はあっと言う間に激変した。

全世界で景気が破壊されており、世の中がボロボロになりつつある。街のいろんな店が売上が上がらずに苦しんでおり、テナントが休業し、閉鎖し、撤退し、それに伴って多くの人たちが仕事を失っている。

日本の労働者人口の4割近くがすでに非正規雇用者である。非正規雇用者は2036万人もいる。彼らは「景気の調整弁」だから、景気が悪くなれば真っ先に切られる。切られる「ため」に彼らは非正規という身分で雇われたのだ。

だから、すでに彼らの多くはサバイバルを強いられる生活をしている。強制的なダウングレードを強いられている。食事も質や量が減って、小さなおにぎりひとつで飢えをしのいでいる人も多い。

人間は堕ちるところまで堕ちても、自殺しない限りは「仕方なく」でも生き続けることになる。だから、今まで清潔で安心な環境で生きていたとしても、いざとなったら誰でも路上生活者となっても生きることができるのかもしれない。

しかし、誰でも「ここまで堕ちたくない」と思うレベルがある。自分にとっては、それがいったいどこまでなのか……。多くの人たちが、そういうことを考えなければならない時がやってきている。

「自分は今の状況でどこまで耐えられるのか……」

人の忍耐力には「限度」がある。どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのかは、人によってそれぞれまったく違う。

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自分は、どこまでの貧困が心理的に限界なのか

生まれた環境、時代、場所、そして性格や気質によって、「ここまで堕ちたら心理的に耐えられない」という範囲が違っている。

昭和20年。日本が敗戦を迎えた時、国土は空襲によって灰燼と化していた。日本はそこから立ち上がるのだが、昭和30年頃までは日本は再建の途上であり、人々の暮らしもそれほど豊かであるとも言えなかった。

だから現在の50代以上の人は、今でも下町の長屋暮らしの頃を覚えている人もいるはずだ。あるいは昭和の下町の光景を振り返ることができる人も多いはずだ。(ブラックアジア:1966年。東京の日常。日本は変わり果てたか、それとも変わっていないのか?

四畳半一間の古いアパートで、共同トイレで、風呂も銭湯という生活は珍しいものでもなかった。

南こうせつの名曲『神田川』では「貴方はもう忘れたかしら、赤い手ぬぐいマフラーにして、二人で行った横丁の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた」という歌詞がある。

この曲は昭和48年(1973年)の歌だったが、その時代に「もう忘れたかしら?」と三畳一間の小さな下宿を振り返っているので、昭和30年代か昭和40年代初期の光景を描いているのだろう。

そういう時代をまだ覚えている人もいる。だから、郷愁に駆られて「そこまでの貧困なら、逆に戻っても別にいい」と思う人もいるかもしれない。

しかし、高度成長期以降に生まれ、環境の良い、清潔で、プライバシーも整った個室暮らしをした今の50代以前の人は、そんな生活は耐えられないし、三畳一間まで堕ちたくないと考えるはずだ。

人によって、そのあたりの感覚はまったく違っていて、それぞれ「自分の心理的な限界はここまで」という最低レベルは違っている。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

下手したらマイホームも失うかもしれないような状況

高いところから転がり堕ちてしまった人と最初から貧困の中で生きていた人では、当然ながら社会が大混乱した時の精神的なダメージや耐久性は違っている。

何も持たない人は、しばしば「無敵の人」と称される。

最初から生活に困窮し、貧乏に暮らしていた人は、時代がどう変わろうが最初から何も持たないので自分の環境は何も変わらない。

そのため、全世界の経済が阿鼻叫喚の地獄に堕ちようが、100年に一度の極度なまでの景気後退がやって来ようが関係ない。

「無敵の人」はもともと何も持たなかったのだから、社会がどのように変わろうと大して大きな影響がない。まわりがまとめて困窮したら、まわりが自分の環境と同じになるわけで、むしろ「ざまを見ろ」という気持ちにもなることもあるかもしれない。

つまり、最初から困窮していた無敵の人は、社会が大混乱しても自分の生活は相変わらず困窮しているので大して変化がないのだ。変化がないので、社会の大混乱で精神的にダメージを受けることも少ないし耐久性もある。

問題は、社会の大混乱によって今の生活が維持できなくなってしまう人たちである。安定した給料がもらえる仕事を失ったり、貯金を失ったり、マイホームを失ってしまうことになる人たちが最も大きな精神的ダメージを受ける。

中国発コロナウイルスによって勤め先が甚大な損失を被ると、リストラ・無給休業・倒産などの悲劇が次々と襲いかかる。

背伸びして住宅ローンを組んでいた人たちは、仕事を失ってしまうと、貯金を急激に失う上に、下手したらマイホームも失うかもしれないような状況に直面する。まさにすべてを失って路頭に迷うのである。

そうなると、凄まじい精神的ダメージを負うことになる。そこまでいかなくても「もしかしたら」という不安にすくみ上がる。足元が崩れていく感覚は、耐え難いことであるに違いない。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのか?

2020年の自殺者は増えることになる。日本もそうだが決して日本だけではない。これから「世界大恐慌」並みの経済不況が襲いかかったら、全世界で自殺者がうなぎ上りに増えていく。

これは確信を持って言えることだ。

なぜなら、失業率と自殺者数は常に同期(シンクロ)しており、失業率が増加したら必ず自殺者数も増えることが社会現象として知られているからだ。

とすれば、中国発コロナウイルスによって企業倒産数と失業率が危機的なまでに上昇する今の環境の中で何が起こるのかは社会学者が誰もが知っている。これから、自殺者が続出する社会がやってくる。

実際に生活に追い込まれて困窮してしまった人が自殺に追い込まれることになるのだが、それだけではない。社会が大混乱して経済的ダメージが膨れ上がり、先が見えなくなっていくと、不安と恐怖が人々の心の中に忍び寄る。

危機の中での強い閉塞感、生活が崩れていくことの恐怖心、先が見えないことの絶望。感受性の強い人たちは、こうした社会の空気を敏感に感じ取り、そして精神的に耐えられなくなり、落ち込み、うつになる。そして、このように思う。

「堕ちたくない……」
「もうこんな社会で生きたくない」

こうした気持ちによって、ふと「死」に誘われる。堕ちたくない、堕ちるのが怖いという感情が、日々の悪いニュースによって蓄積し、増幅され、誰よりも早く精神的に疲弊してしまうのだ。

人の忍耐力には「限度」がある。どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのかは、よく知っておく必要がある。

これから限度を試される時代になるのだから……。

『貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える(アビジット・V・バナジー)』

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