今後、どん底に生きる人たちは「シェア(共有)」が選択ではなく強制と化す

今後、どん底に生きる人たちは「シェア(共有)」が選択ではなく強制と化す

シェアは最先端のスタイルのように見えるでの若者がそれに飛びついている。しかし私はシェアが新しいスタイルとはまったく思っていない。まずシェアが「社会のどこで成り立っているのか?」を考えて欲しい。シェアは、常にどん底に生きる人たちの社会で成り立っているのだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

中古品がヤフオクやメルカリの中でぐるぐると回ることの意味

人々は徐々に「所有」にこだわらなくなってきている。所有しなくてもいつでも安くモノが手に入るのであれば、むしろ必要な時に使って「必要でない時はない方がいい」と思うようになる。

しかし買ってしまうと捨てるのがもったいない。どうするのか。シェア(共有)するのである。必要な時に使って必要でなくなったら返す。それが今の時流に合っているのだと人々は考えるようになっている。

現在、若年層はインターネットで自分の持ち物を気軽に売るようになっている。たとえば、ヤフー・オークションやメルカリなどは、個人が気軽に自分の持ち物を売れるようにサービスを提供している。

こうしたサービスが爆発的に人気になっているのは、すでに若年層は「所有にこだわらなくなっているから」である。少し使って必要がなくなったら売る。

昔の意識では、これは単に「中古を売っている」と捉えるかもしれない。しかし、その意識は今の感覚とは若干ズレがある。これも、実は「シェア」のひとつのスタイルであると捉えれば時代が読み取れる。

中古品はヤフオクやメルカリの中でぐるぐると回る。それは人々に次から次へと「シェア」されている。

「必要でない時はない方がいい」を実現するのが「インターネットで売る」ということである。必要であれば、またインターネットで安く手にいれる。一種のシェアがそこに成り立っている。

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シェアは、どん底に生きる人たちの社会で成り立っている

インターネットはシェア(共有)を効率的に行えるように社会を整備している。自分の持ち物を誰かに売れて、欲しいものが安く買える。要らなくなったら、またインターネットで売れる。

あるいはインターネットでモノを借りることもできる。必要な時にモノを借りて、要らなくなったら返す。これもシェアのひとつである。実に効率的だ。だから、シェアは最先端のスタイルのように見えて、若者たちはそれに飛びついている。

しかし、私自身はシェアが新しいスタイルとはまったく思っていない。シェアというスタイルが「クール」だとか「格好良い」と思っている人は、社会の風潮に騙されているのかもしれない。

まずシェアが「社会のどこで成り立っているのか?」を考えて欲しい。シェアは、常にどん底《ボトム》に生きる人たちの社会で成り立っているのだ。

大阪の西成区にある日本最大のドヤ街で私が興味深いと思ったのは「泥棒市場」だった。泥棒市場と名付けられているので、泥棒された商品が流れて売られているようなイメージがあるが、実際はそうではない。

労働者が使い古した雑貨や衣服や靴やアダルト本や大工道具や家電製品を、それぞれが露店で売っているのである。靴なんかを見れば、すっかり履き古してボロボロになっていたりするのだが、それでも安いので売れる。

部外者はそんなものを買わない。労働者の間で物品が回っている。ドヤ街の労働者は、要らないものを売って要る物を買って、街の人たちと物品をグルグルと回し合ってシェアしていたのである。

ドヤ(宿)もまた一部屋に何人も寝泊まりする大部屋があるのだが、これも部屋のシェアに他ならない。何のことはない、ドヤ街では、若者が「最先端」だと思っているシェア(共有)のライフスタイルが当たり前だった。

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シェアが当たり前になると、貧困層の賃金は下がるのでは?

要するに、貧困層の世界では昔からシェアは当たり前に行われている。シェアがなければ暮らしていけないライフスタイルになっているのだ。シェアというのは、実は貧困層のライフスタイルでもあったのだ。

インターネットはこのシェア(共有)を効率的・効果的にして一般化しようとしているということになる。

テレビも、コンピュータも、カメラも、本も、傘も、衣服も、あらゆるものがシェア(共有)経済に飲み込まれていくだろう。シェアハウスも広がっているが、ひとつの部屋を他人と共有する住み方も当たり前になりつつある。

他にも、様々なものが「所有」から「シェア」という流れになっていくはずだ。ここに商機があるので企業はこれが素晴らしいものであると喧伝しており、あらゆるものがシェアしやすいようにシステムが整備されつつある。

しかし、ふと思うのだ。

シェアというのは、貧困層がどん底《ボトム》の世界でも生きていけるために作られたシステムである。それがインターネット内でシステムとして整備されていくようになると、人々の賃金はますます下がっていくのではないか。

企業は常に、労働者が「ギリギリ生きていける額」を見極めて、必要最小限の給料を出すのだ。シェアがシステムとして整備されると、賃金をもっと引き下げても労働者はシェアを使って生きていけると企業は判断する。

たとえば、シェアハウスが一般化して当たり前になるとどうか。6万円のマンションの一室が3人でシェアされて2万円で入れるようになるとする。そうすると今まで12万円でギリギリだった生活は意外に生きていけるようになる。

本当は他人と空間を共用しているという不便さを我慢しなければならないのだが、それでも企業は「労働者をシェアハウスにぶち込めば、彼らの賃金はもっと下げられる」と考えてギリギリまで賃金を下げていくのではないか。企業は迷いなくそうするだろう。

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シェアが強要される時代がくるのではないかと一抹の不安を抱く

シェアハウスだけでなく、シェアが当たり前になっていくと生活コストを下げられる分だけ企業は労働者に「シェア」を強要するようになり、それで賃金を減らす動きになるように私は危惧している。

これによって貧困層は、ますます低賃金・悪条件で働かなければならなくなって、より貧困化が加速するのではないか……。

シェア経済がどんどん進んでいくと、所有は富裕層だけが経済的にもステータス的にも許されるものとなっても不思議ではない。どん底に生きる貧困層であればあるほど所有ができなくなる。

そうするとシェアが第一優先となり、事実上のシェアの固定化につながる。つまり、シェアが広がれば広がるほど貧困層は何も持てないところまで追い込まれ、「シェアされるものしか使えないようになる」ということだ。

さらに言えば、シェアされるモノにもランクができて、どん底に生きる人たちはボロボロの中古品か粗悪品だけしかシェアできなくなるはずだ。

それでも貧困層が生きていけるシステムが整ったと国や企業が判断したら、企業は自らの利益のために労働者に支払う賃金の総額をどんどん減らし、国もそれを容認することになる。

まだ社会はそこまで至っていないので、今はシェア(共有)の利便性だけが強調されている。人々もまだインターネットで広がっている「シェアという社会現象」を深く考えていない。

しかし、シェアによって貧困層がより貧困化する可能性に気づいている私は、やがて「貧困層は所有なんか考えないでシェアしてろ」と、シェアが強要される時代がくるのではないかと考えている。インターネットでシェア(共有)システムが広がることに、私はバラ色の未来を見ていない。

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』

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