日本に極度の貧困は起こり得ないという前提は果たして本当に正しいのか?

日本に極度の貧困は起こり得ないという前提は果たして本当に正しいのか?

日本人は「日本で極度の貧困は発生しない」と考える。しかし、政治的混乱、経済悪化、社会保障費の大削減、福祉劣化、インフレ、暴動、預金封鎖、戦争、超巨大地震など「絶対に起こらないだろう」と思われていることが起きたら、想像を絶する貧困が広がるかもしれない……。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

こんなところで人が暮らせるのかと、衝撃

発展途上国の生活レベルはとても低く、日本人から見ると日本の昭和30年代よりもさらに貧しい場所もたくさんある。途上国の貧困層の集まるスラムになると、日本とは比べようがなく、その荒廃にショックを受ける人も多い。

かく言う私も、二十歳の頃に初めてタイを訪れてドンムアン空港から市内に入る列車の両脇にバラック小屋の建物がたくさん立っているのを見て、「こんなところで人が暮らせるのか」とショックを受けた。

列車スレスレにバラック小屋が建ち、小屋の中が見えるどころか、住民と目が合うほど距離が近かったのだ。

子供がウロウロしていたら轢かれることもあるかもしれない。酔っ払って線路に寝る男も出てくるかもしれない。運悪く線路に倒れて動けなくなる年寄りもいるかもしれない。

不測の事態は何か起こり得る。線路に近すぎるというのは危険極まりないことである。

その後、私はタイにどっぷり浸ることになるのだが、当時はドンムアン空港近くだけでなく、市内でも線路沿いにスラムが建ち並んでいた。廃線になって線路だけが残されている場所もあったが、スラムは「線路沿い」だったのだ。

なぜ環境の悪い線路脇にバラック小屋を建てるのかと考えても、そのときはまったく分からなかった。(ブラックアジア:なぜ途上国では線路沿いのうるさい場所に人が住み着くのか?

さらに、高速道路沿いにもバラック小屋が建ち並んでいて、それ自体がスラム地区のようになっていた。

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ヤモリが壁に張り付き、這い回る宿

後に私はタイだけでなく、カンボジアでもインドネシアでもフィリピンでもインドでも、線路脇や川沿いに多くのバラック小屋が並んでいる光景を目にするようになる。

カンボジアで私が足しげく通っていたトゥールコック地区も、すでに廃線になっていたが線路沿いにスラムがずっと続いていた。トゥールコック地区は線路沿いであると同時に沼地だった。雨が降ると道は泥だらけになり、異様な臭いが漂った。

そう言えば、タイのクロントイ・スラムも、いつもジメジメ湿った沼地に建っているようなスラムだった。パッポンで働いていた知り合いの女性がそこに住んでいるというので訪ねて行ったが、暑さと湿気で倒れそうになったのを覚えている。

床はじくじくとヘドロが湧いてくるようなところだったので、狭い細い路地はいつも濡れていて、足が汚れないように板が敷いていた。そんなところだった。「なぜこんなところにいるのだろうか。早く引っ越せばいいのに」と思ったこともある。

しかしながら、こうしたところにずっといると、次第に貧しさの光景に慣れていく。何とも思わなくなる。そして、ここにしか暮らせないのなら、ここでもいいのかもしれない……と思うようになっていく。

ただ、私は最初からすぐにスラムのような極度の貧困の世界に慣れたわけではなかった。初めてタイで貧困を目撃した時は衝撃的だったし、目の前の光景に拒絶感すらも覚えたほどだった。

東南アジアを最初にうろついた二十歳の頃は、自分の泊まった安宿があまりにもボロボロで自分の想定以上に薄汚れており、薄暗い部屋の中でヤモリが這い回っているのが私を憂鬱にさせた。

東南アジアの安宿はどこに泊まっても同じだ。必ずヤモリが壁に張り付き、這い回り、夜になったら鳴く。

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限界を突破して転がり堕ちることもある

バックパッカーでもやってみようと思い立ち、実際にタイの旅に出たところまでは意気揚々としていたが、現地に着いて最初の一週間ほどは「なぜこんなところに来てしまったのか。なぜこんなところにいるのか」と、夜になったら泣きそうになっていた。

当初はカオサンに泊まったが、当時のカオサンはまだまだ洗練されておらず、夜になればなるほど安宿の雰囲気は陰惨になった。

蛍光灯もやたらと薄暗く、チカチカし、しかもしばしば停電する。そんな場末の部屋の中で「強盗がやってくるのではないか?」「こんなところで死にたくない」と私は恐怖に震えていた。

最初の頃は東南アジア名物の屋台の食べ物も、最初は汚らしいと思って食べられなかった。今では大好きな香菜(パクチー)のニオイも当時は吐き気がした。不潔なニオイのように思えて口にできなかった。

カエルの唐揚げやら得体の知れない虫の唐揚げまで売っていた。「こんなものまで食べているのか」という驚きと、「こんなものも食べなければいけないほど貧しいのか?」という気持ちが交差した。

何を見てもショックを受けて、「自分が耐えられる心理的限界を超えた貧しさだ」と感じていた。屋台で何か食べるなんてとんでもないと思った。食べた瞬間に食中毒になって、毒が全身に回るのではないかと想像した。

ところが……。

1ヶ月もすると最初の頃の恐怖と拒絶感が嘘のように取れていた。何がきっかけだったのか覚えていないが、初めて見た貧困のショックは、ゆっくりと、自然に消えていったように思う。

そして、その後はさらに貧困地区をさまようようになった。ヤモリが這い回る宿で私は安眠し、屋台の食事が私の日常の食事となった。パクチーに慣れたのはずっと後の話だが、それも何とも思わなくなった。

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平穏であり続けるという前提は正しいのか?

タイの貧困地区をうろういていたこともあって、1990年代の後半にカンボジアに向かって、タイよりもさらに貧しい場所のスラムに出入りするようになっても、私は別に何とも思わなかった。

ボロを着てうろつき、雨水を溜めた濁った水で身体を洗い、何の肉なのか分からない肉が乗った飯を食べて満足していた。その後、さらにいろんな国で極限的な貧困も見てきたが、もはや不感症のようになっていた。

インドのコルカタやムンバイに降り立った時には、再び凄まじい貧困にショックを受けたのだが、それも3日ほどで慣れたように思う。貧困の光景は慣れる。スラムに出入りしていると、貧困が日常になるので、自分が貧困地区にいるということすらも気づかなくなっていく。

だから、私は他の人に比べると貧困での生活は問題ないのかもしれないとも思う。それがどんな世界なのか実際に知っているし、耐性もついている。日本が経済的に縮小してしまい、アジアの極貧国と化しても問題なく生きていけるようにも思える。

しかし、ふと思うこともある。

私が経験したのはしょせん「旅の中の出来事」であり、自分が実際に落ちぶれたわけではなかったので耐えられたのかもしれない。日本という「帰る場所」があった。「帰る場所」があるというのは、最初から救いがある状態だ。

もし自分が何もかも失って、日本が落ちぶれると同時に自分も一緒に落ちぶれて、ヘドロの臭いが充満するバラック小屋で暮らすしかなくなった時、自分は本当に耐えられるのだろうか。体力が持つのだろうか、精神力が持つのだろうか……。

「貧困の世界には慣れているから大丈夫」みたいなことを言ってられるのか。あのもがいてももがいても這い上がれない極度の貧困で、徒手空拳で今の自分はやっていけるのだろうか。

日本人は「日本は大丈夫だし、大したことは起こらないだろう」と考えている。

しかし、いつまでも日本が平穏であり続けるという前提は正しいのだろうか? 日本に極度の貧困は起こり得ないという前提は正しいのだろうか。

政治の混乱、国内の対立、経済の急激なる地盤沈下、社会保障費の極度の削減、福祉の劣化、極度のインフレ、暴動、預金封鎖、戦争、超巨大地震、超巨大災害など「絶対に起こらないだろう」と思われていることが突如として起きたら、一気に私たちが想像したことのない貧困が広がるかもしれない。

可能性はゼロだろうか?

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