新しいことが覚えられず古いことばかり覚えている「記憶の逆転現象」の理由

新しいことが覚えられず古いことばかり覚えている「記憶の逆転現象」の理由

先日、久しぶりにバンコクに行って、ヤワラー地区をも野良犬のようにうろつき回っていた。

この地区を歩くのは約8年ぶりだったにも関わらず、そこに到着したらまるで8年のブランクはまるでなかったかのように、すべての道を思い出した。名前もないような路地裏さえも覚えていた。

ヤワラー地区は「今度、再開発する」と言われながら、今もなおそれほど変わっていない地区である。いったい、いつになったら再開発に入るのだろう。できれば何も変えないで欲しいが、そういうわけにはいかないだろう。

もちろん、今も細かいところは変わっている。しかし、全体的に8年前とはまったく何も変わっていない。そのため、戸惑うことも迷うこともなかった。ちょっとした路地を歩きながら、この路地で10年前どころか30年前に知り合った女性の顔すらも想い出す始末だった。

かつての自分が、そこで何をして、何を食べて、何を飲んで、何を買ったのか、思い出せなくてもいいような記憶も、ひとつひとつ記憶を辿っていくと断片が静かに浮かんでくる。

自分自身の体験からくる記憶を心理学では「エピソード記憶」と呼ぶ。

自分自身で体験したエピソード記憶は、忘れにくいという特徴がある。何が記憶に定着するのか分からないのだが、ふとしたことで何かを思い出すと、いったい自分がどうしてこんなものまで覚えているのかと驚くことにもなる。(鈴木傾城)

思い出せる記憶、思い出せない記憶

私は今まで十数回もあちこち引っ越している。今もその引っ越し癖は変わっていない。住んでいたところをそれぞれ振り返ってみれば、時期的に新しい場所になればなるほど事細かい記憶がなくなっていることに気づく。新しい記憶が鮮明でなくなる。

人に関してもそうだ。20代の頃に会った女性たちは、それがほんの一瞬の関係であった女性でも、その顔やエピソードを本当によく記憶しており、懐かしく想い出すことができる。

すべての女性を思い出せるわけではないのだが、100人や200人くらいはすぐに思い出す。その前後も覚えていることもあるし、彼女と何を食べたのかという些細なことも思い出せる。

ところが、最近は風俗に関わっている多くの日本女性と会っていたりするのだが、ほんの1年や2年前に会ったはずの女性なのに、その女性の顔がもう思い出せなくなっているのだった。

確かに数年前に一度だけ会った女性を覚えるというのは、難易度が高いのかもしれない。しかし、30年も前に一度だけ会った女性を鮮明に覚えていて、2年前に会った女性の方は痕跡すらも忘れてしまうというのはどういうことなのだろう。

通常は逆であってもおかしくないのに、古い記憶の方が鮮明で新しい記憶の方が薄れるのである。面白い現象だ。これは、私だけに起きていることではなく、すべての人に起きることである。

年齢がいけばいくほど、今の記憶よりも昔の記憶の方が鮮明に残る経験をしていく。

人はよく「3日前の夕食が何だったのか思い出せない」と言う。いや、3日前どころか昨日の夕食ですらも思い出せない人もいる。

なぜか。それは「特に記憶しなくても自分の人生にまったく影響がないから」である。つまり、意識がそこに向いていない。意識が向かないものは「覚えていない」のが普通だ。

「エピソード記憶」というのは、意識がそこに向かなければ覚えられないものだったのである。

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強い意識が向いていたら覚えている

子供の頃の記憶、昔の自分自身に起きた昔の記憶を鮮明に覚えており、それをいつまで経っても忘れないのは、その時にはそこに「強い意識が向いていたから」であると言える。

なぜ、強い意識がそこに向いていたのか。強い情感や危機感や感動や驚きがそこにあったからだ。

子供の頃の記憶をたくさん覚えていると言っても、小学校に入ったその日から卒業するまでのその日までのすべての日を思い出せる人はさすがにいないはずだ。覚えているのは、「意識が向いていた」時の光景だけなのである。

これは逆に言えば、意識がそこに向かなければ何も覚えられないということを意味している。

朝、出かけるときに玄関のドアの鍵を閉めたのかどうか心配になって戻る日もあるかもしれない。なぜ少し前の出来事を覚えていないのかというと、当たり前だがそこに意識が向かなかったからである。

玄関のドアの鍵をかけたかどうか分からなくなるのは、意識がそこに向かなければ覚えられないという象徴的なケースであると言える。

「エピソード記憶」は意識が向かなければ、記憶されることはなく、意識が向かなかった出来事はなかったのと同様に処理される。

そして重要なのは、意識が向くと言っても一律に同じ強さで向くわけではないということだ。強烈なまでに強く意識が向く時と、何となく向く時のように、意識の濃淡がそこにある。

子供の頃の記憶は、真っ白なキャンバスに絵を刻むようなものだから、毎日毎日がそれぞれ鮮明で鮮烈で強い意識を持つに値する出来事ばかりだった。

起きることは常に「今まで経験したことのないこと」ばかりだったと言っても過言ではない。だから、自分の身に起きる出来事はかなり強い関心を持っていたわけであり、「エピソード記憶」として深く刻み込まれていった。

しかし、年を取れば逆に「今まで経験したことばかり」のものになる。過去の似たような経験と照らし合わせて「あれと同じだ、前にも似たような経験があった、また同じものだ」と思うようになる。

そうすると、強い意識も関心も感動も想起できず、3日前の食事が思い出せないように、新しい出来事も思い出せなくなっていく。

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若い頃の記憶が鮮明な理由とは?

若い頃の記憶が鮮明なのは、まだ人生経験が浅くて何も知らない時は、ひとつひとつの「エピソード記憶」が生き残りの武器になるからだ。

「このような時はこうする。このような時はこうなる。このような時はこうすればいい」というのを、きちんと学習する。

そうすることによって、自分がどのように反応すればうまく生き延びられるのか、という学習になる。子供の頃の「エピソード記憶」は、言ってみれば生き残るための学習素材でもあったのだ。

経験を積み重ね、大人になって酸いも甘いも噛み分けられるようになれば、学習素材は必要ない。つまり新しい「エピソード記憶」は必要ない。過去と同じ経験をしているのであれば、過去の記憶だけ残っていればいい。脳は合理的に「頭を酷使しないように」できているのである。

だから、同じ日々の繰り返しを生きている大人は、最近の出来事や会った人のことを完全に忘れてしまう。「もはや、今の人生に慣れてしまった」という言い方もできる。

単調に暮らしていれば、その単調さによって、ますます最近の出来事が覚えられなくなっていく。慣れると注意は向かないし、意識されることもない。

かくして私たちは新しいことをどんどん忘れていき、古いことばかりを覚えている記憶の逆転現象を意識するようになる。それを悪いことのように思う人もいるかもしれない。しかし、一概に悪いことばかりではないのかもしれない。

誰でも長い人生経験を持つことによって多くの「エピソード記憶」を蓄積していくようになる。その結果、「こんな時はどのようにすればいい」という無意識の判断をして、日々を平穏に生き延びることができるようになる。

目の前で起きている出来事に、いちいち動揺しないで生きられるようになる。静かに暮らせるようになる。日常の些事にいちいち過剰反応しなくても済む。「それは悪い話ではないな」と思う人もきっといるはずだ。

経験を積み重ね、大人になって酸いも甘いも噛み分けられるようになれば、学習素材は必要ない。つまり新しい「エピソード記憶」は必要ない。過去と同じ経験をしているのであれば、過去の記憶だけ残っていればいい。脳は合理的に「頭を酷使しないように」できているのである。

売春地帯をさまよい歩いた日々

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