誰でも休みたいし、面倒なことはしたくない。眠たくなるのは夜とは決まっていない。しかし、社会がそれを求めているので、仕方がなく社会に合わせている。合わせることができなくなると、本当は「社会が悪い」のだが、社会は逆に「あなたが悪い」と糾弾して病気扱いにする……(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
先進国で流れている時間とはまったく違う世界
かつて、タイやインドネシアの僻地ですることもなく時間をつぶしていたとき、現地の人々は私以上にのんびりと生きていた。
昼寝している人は、明けても暮れても昼寝したまま過ごしているし、井戸端会議している母親たちは、やはり朝から晩までそうやってのんびり暮らしている。
バングラデシュの郊外をさまよい歩いたとき、ひとりの男が自分の村を案内してくれたのだが、そこでも台所で近所の女性たちが自然に集まってくつろいでいて、何をすることもなく暮らしていた。
村人たちは自然のリズムに寄り添って生きていた。朝日とともに目覚め、夕暮れとともに一日を終える。季節の移ろいを肌で感じ、月の満ち欠けを眺めながら過ごしていた。こうした生活の中で、彼らはすぐれた人間関係を築いていたのだ。
彼らの生き方は魅力的だと思った。急ぐことのない、ゆったりとした時間の流れ。そこには、現代の私たちがいまだ忘れかけている大切なものが確かにあったのだ。
井戸端会議は単なるおしゃべりにとどまらなかった。そこには地域の絆を深める重要な役割があった。子育ての知恵を共有し、困難に直面した者がいれば助け合う。そうして、コミュニティ全体で支え合う関係が自然と生まれていたのだ。
彼らはそうやって生きていけるからそうやっているわけで、東南アジアや南アジアの農村に流れている空気と時間は、先進国で流れている空気と時間とはまったく違ったものである。
彼らを無理やり都会のどこかに連れて行って、工場に放り込んで時間に合わせて働けと強制したら、多くの人がついていけなくなって心が壊れるかもしれない。
そして、そういった人たちは社会から「駄目な人間たちだ」と烙印を押されて排除されるかもしれない。
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そのうちに病気として扱われるようになる
しかし、重要なことがある。彼らは工場化社会では排除される人間かもしれないが、農村では別に何の問題もなく、普通に生きてきて暮らしていたということだ。
逆に私はどうなのか。私は先進国である日本の効率化社会で生まれ育って、何でも早く、何でも効率的に、何でも正確にやることを求められる社会に染まった。
そういった人間が東南アジアの農村に置いてけぼりにされると、私の姿はあのゆったりとした空気と時間の中で生きる人たちにどう見えただろう。
私の姿は、農村の人間からすると、せかせかして落ち着きがなく、細かいことを気にして、イライラしていて、ひとときもじっとしていられない「おかしな人」に見えるはずだ。
場合によっては、「あの人は、精神的に何か問題がある」と思われたかもしれない。
時間の捉え方が違い、感覚も違う。彼らが工業化社会で働くと、彼らは落ちこぼれになる。そして、先進国の人間が農村社会で働くと、体力も落ち着きもない病人と見なされる。
社会が変化すると、新しい社会に適合できない人が必ず出てくる。そういった人は、最初に「困った人」として扱われる。
しかし、ずっと困った状態のままでいると、どうなるか分かるだろうか。
やがて新しい病名が付けられ、そのうちに病気として扱われるようになるのだ。かつて病気と見なされなかった人も、社会に適合できないでいると「それは、病気」なのである。
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頭の構造の方が問題視される社会
工業化に適した感性というのは、合理的であり、効率的であり、科学的であるというものだ。読み書きも、計算もできなければならない。
農業で生きていた頃は、別に合理的でなくても、効率的でなくても、読み書きができなくても、計算ができなくても、何の問題もなく生きて行けた。それは病気ではなかった。
しかし、今では何度教えても勉強ができない人間は「学習障害」という病名が付けられる。そして、劣っている人間として問題視される。
その学習障害児が人並み以上の体力があったとしても、そちらの方は評価されることはない。頭の構造の方が問題視されて、落ちこぼれとして評価されるのである。
牛を持ち上げる体力があったら、それこそ農村ではヒーローだ。すごい奴だ、と称賛されるだろう。実際、農村では力持ちが役に立つ。
しかし、そんな力持ちのヒーローでも、高度情報化社会に行くと扱いが変わってしまう。彼が計算を覚えようとしなければ、単なる愚鈍な馬鹿くらいの扱いでしかない。
高度情報化社会では、知性によって規格化されない人間はみんな不良であり、排除の対象になってしまう。
高度情報化した社会で重要なのは、何と言っても、「効率化・合理化・スピード」である。だから、学校でも家庭でも、しつけというのは、「早くしなさい、ルールを守りなさい、正確にしなさい」なのである。
間違えても、「力持ちになりなさい、たくさん食べて体力を付けなさい、細かいことはいいから大らかに生きなさい」ではない。そんな教育をしていたら、高度情報化社会では単純労働者にされてしまう。
たとえ、子供が力持ちタイプでも、何とか勉強させようとするのが現代社会なのである。
1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから
病気でない人間でも、病気扱いにされていく
効率化・合理化・スピード……。
ここで重要なのは、こういった社会が求める資質を教育しても身につけられない人間は、「病気」として見なされて、矯正の対象になっていくということだ。
何でもせかせかとできない人間は、矯正の対象になる。みんなと同じようにできない人間は、他に何らかの優れたものがあっても「障害」になってしまう。
社会が勝手に「ここまでは正常」「これができないと異常」と定義を作って、正常にまで至らない人間は病人となる。
仮に社会が変わって、40キロの荷物を抱えて走れる人間が重要な時代になると、現代人の多くは「社会に適合できない障害者」と定義されるだろう。
現代社会では別に重い者を担いで走れなくても障害者の扱いにはされないが、それが求められる社会になると、それができない私たちは立派な障害者と化す。
私たちは、社会の規格に合わない人間を排除したり、落ちこぼれとして烙印を押したり、時には病人扱いすらしているが、ここに現代社会のひずみが生まれる。
病気でない人間でも、社会に適合しないというだけで病気扱いにされていく。本来は病気ではないようなものまで、社会に合わないというだけで病気扱いされていく構造を私たちは知っておく必要がある。
たとえば、自律神経失調症という「病気」がある。
疲れたと仕事を勝手に休むのは、自律神経失調症。
急に何もしたくないと思うのも、自律神経失調症。
夜になってもきちんと眠れないのも、自律神経失調症。
満員電車に乗りたくないのも、自律神経失調症。
誰でも休みたいし、面倒なことはしたくないし、眠たくなるのは夜とは決まっていない。しかし、社会がそれを求めているので、仕方がなく社会に「合わせて」いる。
合わせることができなくなると、本当は「社会が悪い」のだが、社会は逆に「あなたが悪い」と糾弾して、あなたを病気扱いにする。
自律神経失調症は原因が分からないことが多いと言われる。それはそうだ。その人が悪いというよりも、ルールを押しつけている社会に問題があるのだから……。
とりわけ日本では「こうでならないといけない」など周りと同じであること、「普通の人」であることを強く求めてくる、比較的不寛容な社会ですから、生きずらい社会だなぁと日々思っております。
ましてや私は色々な面にて日本の社会から「規格外」の人間だと思われやすいらしく、今まで社会から「排除」されそうな「経験」が何度もありました。
どうすれば、社会から排除されずに生きていけるか。
まずは、社会がどのような能力・考え・価値観を求めてくるかを理解し、それに合うように振舞ってみることです。これで、個人的にはとても生きやすくなりました。
しかし、一時的にはその方法が良くても、やはり違和感があってストレスもありますし、長期的に見ればあまり良くはないと考えられます。
人間の能力や性格・気質は、なかなかそう簡単に変わるものではありません。
ですから、自分を自分がいる社会の「規格」に合わせるよりも、大変かもしれませんが、自分に合う社会を見つけてそこで生きる方が長期的にはいいのではないかと、思っております。
危険思想ですが、「社会が俺を排除するならば、俺が社会を排除してやる」という考えを持つ人もいるかもしれません。テロリストなどの人たちは、そのような考えを少なからず持っているのではないかと思います。
・・・「どのような人たち」がそのような「歪んだ社会」を自分たちに「都合良く」構築して、どのような「方法」で利益を得ているのかを理解する。そして、社会から「排除」される側から社会を「利用」する側に回るのが一番合理的だと思いますけどね。
戦前は徴兵されて「軍人」にならない男は異常で、所帯を持ち子どもを持たないのも異常でしたからね。
津山30人殺しだって、徴兵検査に落ちて「落ちこぼれ」扱いされたのが理由だったし。
社会が勝手に「正常」を決めていますよ。さしずめ今は、企業に雇用されて「サラリーマン」になることが正常のようです。
社会のシステム・規格にあうように、ずっと努力し走り続けてきました
地主や大金持ちの子息以外でも、この国は、社会のシステム・規格に合うように努力し
適合さえすれば、なんとか食っていけます
それどころか、逆にシステムを逆手にとり、実社会ではあまり役にたたない知識(受験勉強、資格試験の一部)をすばらしく身につけて、エリートサラリーマンや、国家公務員等の資格をとり官僚になるコースも用意されています
「残酷な現実?」といった本に書いてありましたが、ある国家は、早く走れることだけが正義であり、
評価の基準、一番早く走れる人間がすべてを支配する王さまになれる・・・(笑)
ものごとの価値観というものは、場所と時代がかわれば、時には残酷な現実が待ち受ける場合もあります
この世の中の基準は、表裏一体。いかに自分の生きている世界のシステムに適合し、勝ち上がっていくかの
弱肉強食であり、システムを利用して上手く生きていくことが、勝利だと思います
しかし、走る続けるは疲れます、ストレスが溜まります
どこまでも澄み切った青空をみても、あまり何も感じなくなります
感受性は枯渇し、夢は義務感になり、やがて悲壮感、強制感で毎日を生きていきます
あー、早くセミリタイヤしたいです
時間があるときは金がなく、金があるときは時間がない・・・
時間と金があっても、今度は体力(性欲?)がない! うーん、困ったもんです(笑)
主に先進国間(笑•笑いますよ私は)でグローバルと称して多様性多様性とかしましく礼賛する昨今ですが、その実はあくまでも先進国の経済的成長のためのご都合、羊の皮をまとった狼の耳ざわりの良い…本当に耳ざわりの良い…演説のように思えてなりません。
大きなものも小さなものも、長いものも短いものも、その他もろもろ…様々なものたちを、そうしたものだと認めあってともに幸あれと皆が生き生きと共存共生している社会がこの世のどこにあるというのです。私はあの世のことなど、ありやなしやからして金輪際わからんので、この世にというのは不適切かもしれませんが。
様々のものがそれなりに認めあい、まあ色々あるがいいじゃないかお互いさまだと皆がめいめい死ぬる時までそれなりに生きていける「多様」の世界をまことに希求しうるのは、環境に最適化しようと奮闘努力しながらもはじかれて泣いているものたちであろうと思います。あるいはそれに寄り添える心性を持つものたち。それがおそらく祈りといわれるものでしょう。
祈る人の姿はただ美しい。その先のことは私などにはわかりませんが…
これから高度成長が望めない社会では病名を付けてあげるのも優しさかもしれません。
働き盛りの男女が皆と同じに様に仕事ができない、皆と同じように社会になじめないと精神病院や心療内科を訪れています。うつ病や統合失調症などハッキリした病名があればまだ良いですが問題は血液検査もMRIも問診も何処にも問題がない場合。 本人は病名が欲しいのです、できない理由を病気のせいにしたいのです。そこで新たな病気を作り悩める患者に晴れて病名を付けて差し上げる。患者は納得、病院と製薬会社は儲かり、社会はそれらの患者さんの新しい受け皿や団体を作る。これこそ日本の美徳である「三方よし」の教えです(納税者はたまったものではないですが) 「人と違って良いんだよ、右に習えでなくても良いんだよ、あなたにはあなたの良さがあるんだよ」これを上手に教えてあげられない親が多いのですよね、なぜならまたその親も自分の親にそう教えられていないからなんですね。
私は会社で、長年営業職に携わってきました。
転職する前はプラントの設計をしたり、プラントの営業をしたり、現場監督をしたり、役所に対して指名参加願の書類を作ったりと様々な経験をしました。その中で営業が一番大変でしたが、やりがいがあり、自由があり、裁量権があったので楽しかったですね。
転職したきっかけは、プラントの為に作った子会社が余りに中途採用が多かった為に会社に対するロイヤルティが無く、先行投資の為の赤字受注が多かった為会社を整理することになったのです。
私は親会社の採用だったので子会社が無くなっても復帰できましたが、意に沿わない配属の辞令が出た為一大決心でしたが辞表を出しました。
今でもプラント大手の千代田化工が赤字のプラントを抱えて1000億円の増資をしようとしています。スケールは違いますが、倒産寸前の状態ですね。
浪人してからの転職した先での営業は激烈なものでしたが、成果があれば高給で報いられるので数年で前職の部長級の年収になりました。しかし会社は毎月巨額の予算を割り当ててきますから、とてもではありませんが会社の要求に答えていたら、遊ぶ時間や寝る時間が削られていきます。
ここで営業は二つのタイプに分かれていくのです。一つは会社の要求に対して真正面から向き合うタイプと適当にやり過ごすタイプです。
前者はプライベートの時間を限りなく削り、寝る時間も惜しんで働き続けます。会社は彼を営業マンの鏡だともてはやし、あの手この手で褒め上げます。しかしやればやる程ノルマが増えますから、無間地獄に落ちる訳です。
私は後者だったので、ストレスは比較的少なかったのです。会社は100%出来ない予算を降ろしてきますから元々予算が100%出来るとは思っていない訳で、平均より上の成績であれば何の問題もありません。
成績が悪い場合下から叩かれていきますから、適当に流しながら平均以下にならないようにすれば会社に何時に出勤しようと、帰りはラッシュアワーにならない時間に帰ろうと自由なのが営業職の良いところです。
営業は向き不向きがありますから誰にでも出来る訳ではありませんし、時には顧客の無理難題に対応する為社内での調整能力も必要です。一人では解決できない場合上司の力を借りる事もあるので、日頃から上司と上手くやる必要があります。
仕事で手を抜きながら上司と良い関係を続ける為には、微妙なバランス感覚が必要になりますが世間ではこれを要領が良いと言うようです(笑)。
最後に最初から要領が良かった訳でなく、若い頃は正論を上司にぶっつけて上司との関係が上手くいきませんでしたね。今思えば青かったのですが、人生色んな経験値を積んで、初めて清濁併せ飲む事が出来るのではと思います。
しかしながら、社会にいるのですから、社会のルールに従うのは、この世の定めとしてある程度当然では?
全く従おうとしないバカ息子を持つ身としては、《まずは》一度社会に出て、自分の思い通りにはならないんだ、と、いうことを学ばせたいです。井の中の蛙にするのは、避けたいですね。
それを経験してからの、この理論なら、彼の学びになると思います。