明日は自分が住んでいる場所が大地震に見舞われて住処も地域をも失うかもしれない

明日は自分が住んでいる場所が大地震に見舞われて住処も地域をも失うかもしれない

すべての日本人が能登半島地震に心を痛め、心配するのは、日本に住む日本人なら誰でも「明日は我が身」かもしれないからだ。今回はたまたま能登半島が被災したが、明日は自分が住んでいる場所が大地震に見舞われるかもしれない。すべての日本人はそのような意識がある。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

災害に遭うというのは、それほど理不尽なこと

能登大地震を見ていて誰もが感じたと思うが、自然災害は人の営みを一瞬で破壊して日常を荒々しく奪い取る。能登はこれまでも何度か比較的大きな地震に見舞われていて人々は災害対策に慣れていたと思うが、それでも不意打ちの地震は誰にも手に負えないものでもあった。

家族を亡くした人もいる。妻を失い、子を失い、涙している人たちの姿もあった。一緒にいた家族がみんな死んでしまい、ひとり生き残った父親が「これからどうしたらいいのかわからない」と泣いている姿もあった。

道路はズタズタに寸断され、液状化で隆起・陥没し、被害の全容は今もまだわかっていない。政府や自衛隊や行政はベストを尽くしている。日本中からも寄付が集まりつつある。今後はボランティアも入るだろう。

しかし、能登の復興は非常に長い時間がかかるというのは誰に目にも明らかになりつつある。それほどの規模の災害が元旦に襲いかかったということでもある。

倒壊した家屋、使いものにならなくなった家屋も多い。中には家を新しく建てたばかりなのに、地震で住めなくなったという不運な人もいた。この土地に長く住んでいて静かに老後を過ごしていた高齢の人たちも家を失っている。

同時に、地域の商店も破壊され、火災で跡形もなく消え去った箇所もある。これは地域の地場産業をも失われたということであり、多くの人が失職したことを意味する。家族を失い、家を失い、仕事も失い、すべてをなくしてしまった人もいるだろう。

災害に遭うというのは、それほど理不尽なことでもある。いつ襲ってくるのかわからない。災害対策の意識や準備があったとしても、助かるかどうかもわからない。自分が助かっても家族が助かるかどうかもわからない。

今回の能登半島地震は元旦に起きているが、自然災害は元旦だから起きないというわけでもない。一番起きてほしくないタイミングで起こるのが災害でもある。

ブラックアジアでは有料会員を募集しています。よりディープな世界へお越し下さい。

合理性で生きている人たちばかりではないのが人間社会

すべての日本人が能登半島地震に心を痛め、我が事のように心配するのは、日本に住む日本人なら誰でも「明日は我が身」かもしれないからだ。今回はたまたま能登半島が被災したが、次は自分が住んでいる場所が大地震に見舞われるかもしれない。

すべての日本人はそのような意識があるはずだ。

多くの日本人がこの地震の状況を見て心を痛めたのは、もはや復旧が非常に困難か、時間がかかるか、あるいは完全には復旧できそうにない地域も出てくる中で、被災された人たちはどのような決断をするのか、という部分であるように思える。

「もう復旧できないのだから、そこを捨てて違う場所に移るべきだ」という意見もあったりする。そういう意見を持ちやすいのは、都会育ちの人たちかもしれない。恐らく、自分が住んでいる場所に対してもそれほど思い入れがなく、ただの利便性でそこを選んで住んでいる人たちだと思う。

そういう人たちは合理性で住む地域を選択しているので、そこが自分にとって住みにくい場所になったと思ったら、何のためらいもなく出ていく。たとえば地震で地域が破壊されてしまったら「不便な場所に住む理由はない」ので、さっさと引っ越して地域を捨てる。

そういう発想の人であれば、能登で大きな被害を受けて復旧が難しかったり時間がかかりそうだと思ったら、「そこを捨てて違う場所に移るべきだ」と考えて迷いなく実行しているはずだ。

しかし、そういう合理性で生きている人たちばかりではないのが人間社会である。

生まれ育った場所、自分を産み育ててくれた先祖代々の土地、愛着がある古い家、そして顔見知りの近所の人たち、密接で濃密な共同体。そうした部分に強く愛着を持っている人たちは「利便性」なんかまったく関係ない。

そこは不便だろうが、復旧できそうにないほど壊れようが、「自分の守るべき土地」なのである。

インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、『ブラックアジア カンボジア編』はこちらから

住居に関しては「安定感」はまったく求めていない

私自身はまるっきり土地や共同体や住まいに帰属心は持たないタイプである。引っ越しはかなり頻繁に行っていて今まで十数回は引っ越していると思う。ここ数年を振り返っても3回も引っ越した。今年も引っ越すかもしれない。

それくらい私は根なし草であり、一か所にずっと暮らすというのは「これからもない」だろう。住居用の不動産やマンションなんかを買って何十年もローンを払いながら、そこに一生暮らすなど、私には考えられないことだ。

私は住居に関しては「安定感」はまったく求めていない。自分に都合が良いと思ったり、便利だと思ったり、気に入ったと思ったらそこに住むが、気が変わったらすぐに拠点を変える。

引っ越しするというのはカネがかかるし、住所変更の手続きは煩雑で面倒だ。そのため、頻繁に引っ越ししているとそれだけで金と暇を失ってしまうことになるのだが、それでも「同じところにいたくない」という気持ちが勝る。

そう考えると、私はまるっきり郷土愛は持たないタイプであり、その地域に対して「ここが終の棲家」という感覚を持つこともない。

そう言えば、東南アジアを放浪していたときも、一か所に沈没して「そこでなければダメだ」という気持ちを持つこともなかった。気に入った場所があっても、私はそこを抜けて新天地を探しに行った。

最初はパッポンにいたが、やがてスクンビット界隈に拠点が移り、パタヤに流れ、カンボジアに流れ、シンガポールに流れ、インドネシアに流れ、インドに流れ、バングラデシュに流れ、フィリピンに流れ、パタヤに戻り……とせわしなかった。

それぞれ愛着のある場所もあって、定点観測のように戻ったりするのだが、それでも「そこだけ」にはならなかった。振り返ってみると、私はサメのように回遊していないと生きていけないのだとも言える。

インドネシアの辺境の地で真夜中に渦巻く愛と猜疑心の物語。実話を元に組み立てられた電子書籍『カリマンタン島のデズリー 売春と愛と疑心暗鬼』はこちらから。

大きな災害は故郷をズタズタに破壊してしまうもの

しかし、ほとんどの人は生まれ育った故郷や住んでいる場所や長く住んだ家に愛着を持ち、郷愁を感じ、慣れ親しんだその地域に安心や安定や安堵を感じるようになる。長く住めば住むほど、地域に想い出が積み重なり、離れがたくなる。

子供の頃から暮らしている場所なら、なおさらだろう。

想い出には必ずその背景に故郷の光景が一緒に刻まれているのだ。子供の頃に遊んだあの場所、楽しかった小路、一緒に遊んだ近所の友だち、知り合いのおばさん、生まれた町のニオイ、自分だけしか知らない隠れ家。

それは、すべてかけがえのないものとして自分の人生と共に刻まれていて、だからこそ故郷は捨てようと思っても捨てられない「大切な場所」になっている。

子供の頃からそこに住んでいて、大人になっても出て行かなかった人は、そこが不便だとか利便性が悪いとか言われても、そんなことは土地を捨てる理由にはならない。もはやその土地は「自分の一部」であり、アイデンティティでもある。

「よく知っている」というのは精神的に深い安心と安定をもたらす。変化を好む人もいるが、変化をまったく好まない人もいる。まして、能登のような美しい場所であったら、地元の風景や自然が心理的な安定感や喜びになっていただろう。

大きな災害というのは、そうした人々の故郷をズタズタに破壊してしまうものである。そうした人たちに「復旧は難しいから去れ」というのは、「お前の手足は不要だから切り捨てろ」というのと同じくらい残酷なものであるとも言える。

その人がどのような選択をするのかは、その人自身の考えるべきことである。問題は、日本人なら誰もが大きな地震に遭遇する可能性があり、そのときに同じ選択を強いられることがあるという事実だ。

巨大な地震で、私たちは今の環境を失うかもしれない。住居を失い、地域を失うかもしれない。そのとき、どうすべきか。私たち日本人は、誰もがそれを突きつけられているとも言える。日本は、そういう国でもある。

カリマンタン島のデズリー
ブラックアジア的小説『カリマンタン島のデズリー: 売春と愛と疑心暗鬼(鈴木 傾城)』

ブラックアジア会員登録はこちら

CTA-IMAGE ブラックアジアでは有料会員を募集しています。表記事を読んで関心を持たれた方は、よりディープな世界へお越し下さい。膨大な過去記事、新着記事がすべて読めます。売春、暴力、殺人、狂気。決して表に出てこない社会の強烈なアンダーグラウンドがあります。

自然破壊カテゴリの最新記事