どんな時代になっても「誰とでも仲良く」という理想が100%成り立たない理由

どんな時代になっても「誰とでも仲良く」という理想が100%成り立たない理由

長い歴史の中で、白人は確かに間違いなく黒人を奴隷扱いしてきた。それは否定することもできないほど凄まじい人権侵害だった。だからこそ、そうした歴史の中で白人側にも内省が生まれて「人権」が生まれ、「すべての人種は対等である」というスタンスが社会に定着した。「誰もが平等である」という美しいスタンスは現代文明が生み出した最高の概念と理想であるとも言える。しかし、人間の社会と文化は「理想」で動かない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

「それは単なる理想である」と知っている

「アメリカは白人や黒人やアジア人がごった返して暮らす人種の坩堝(るつぼ)で、あらゆる人種が共存するから偉大で素晴らしい国になったのだ」というのは、単なるリベラルが社会に強制してきた「神話」だった。

黒人は相変わらず「差別されている」と言い、実際に人種差別が存在するというのは、白人と黒人のストリートの対立を見ればはっきりと分かる。

マーチン・ルーサー・キングが黒人の権利のために立ち上がったのは1960年代のことなのだが、アメリカはそれから60年経ってもまだ「黒人の命は大切」みたいな抗議デモが広がるような国なのである。

長い歴史の中で、白人は確かに間違いなく黒人を奴隷扱いしてきた。それは否定することもできないほど凄まじい人権侵害だった。

だからこそ、そうした歴史の中で白人側にも内省が生まれて「人権」が生まれ、「すべての人種は対等である」というスタンスが社会に定着した。「誰もが平等である」という美しいスタンスは現代文明が生み出した最高の概念と理想であるとも言える。

しかし、人間の社会と文化は「理想」で動かない。人は「違いを排除する」ことをも本能的に求める性質がある。それを「現実」と呼ぶ。「理想」の前には「現実」が立ちはだかっている。

「誰とでも仲良く」という概念があったとしても、それが現実社会で実行できるかどうかは別の話だ。現実主義者は「それは単なる理想である」と知っている。「誰とでも仲良く」と言っていれば仲良くなれるほど現実は簡単にできていない。

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「誰とでも仲良く」というのは100%成り立たない

分かりやすいパラドックスがある。正義を重んじる警察官は、正義を何とも思わない犯罪者と仲良くできるだろうか。平和を重んじる一般国民は、暴力とテロを引き起こすテロリストと仲良くできるだろうか。

もっと究極の話をすれば、あなたの家族を破壊し、あなた自身をも残酷に殺そうとしている人間と仲良くできるだろうか。

できるわけがない。

少し考えれば、「誰とでも仲良く」というのは100%成り立たないというのは、冷静に考えれば誰でも分かることなのだ。それは、美しい理想なのだが、世の中はまったく美しくない。美しい理想が通用する人間の方が多いのだが、そうでない人間もいる。

「誰とでも仲良く」という人は、連続殺人鬼の犯罪者とも仲良くできるのだろうか。極悪非道なレイプ犯罪者と仲良くできるのだろうか。あるいは、他人を平気で威嚇し、罵倒し、従属させるサイコパスと仲良くできるのだろうか。

「誰とでも仲良く」というのであれば、「そういう異常極まりない人間と四六時中一緒にいて人生を全うしろ」という話になるのだが、それは誰にとっても無理な話であるのは間違いない。それが世の中なのだ。

世の中にはいろんな宗教がある。イスラム教があって、キリスト教があって、ヒンドゥー教があって、仏教がある。それぞれの宗教は、それを信じる人たちにとっては否定することができないものであり、アイデンティティでもある。

しかし、他の宗教が自分の宗教を「ニセモノだ、ウソだ」と全面否定する場合、自分のアイデンティティを否定する相手と仲良くすることができるだろうか。それができたら、戦争なんか起きない。

そういうことだ。「誰とでも仲良く」など絶対に不可能な概念である。美しい概念であるというのは認めるが、現実主義者である私はそんなものは何一つ実現可能であるとは思っていない。

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「避ける」というのは、平和を維持する現実的な方法

ヨーロッパはずっと「ロマ」を迫害してきており、今もなお「ロマ」を嫌っている人たちが大勢いる。(ブラックアジア:1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事

ロマは遊牧民族であり、独自文化を持って基本的にはその土地の人々と迎合しない。彼らは常に「よそ者」である。ヨーロッパのそれぞれの国は、このロマを迫害し続けてきたし、今もなお迫害は止まっていない。

勝手にやってきて許可もなく広場や公園を占拠し、ゴミをまき散らし、泥棒や犯罪を繰り広げて秩序を乱すような行動を行うことが多い。だから、ロマは地域社会と激しい軋轢を引き起こし、迫害の対象となる。(ブラックアジア:根深いロマへの嫌悪。ロマに対する嫌悪や排斥はこれからも続く理由とは

そうでないロマも多い。紳士的な人もいる。良識を持ったロマも当然いるだろう。しかし、そうでないロマもいる。それは部外者には区別がつかないものだし、そもそも人々は区別するほどロマに興味も持っていない。

だから、最も無難な対処は「避ける」というものである。

人種差別もそれをしないための最も無難な対処は「避ける」というものである。人類は長い歴史の中でそれを知っているので、だから自然と人々は人種や宗教や文化で「分離」するようになり、お互いに不干渉であることで平和を維持してきたのだ。

「避ける」というのは、平和を維持する現実的な方法でもあったのだ。それは物理的な対立や衝突を避けるための「人類の知恵」であったと言っても過言ではない。

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現実を見据える人は理想ではなく現実を見るべき

ところが現代社会は「グローバル化」が進んで、ヒト・モノ・カネを一緒くたにしてもいいのだという風潮になり、「分離は差別」「分離は良くないこと」のようなことを言い始めるようになった。

そして、国家の指導者も多国籍企業も「多文化共生」を一般国民に押しつける流れができた。その結果、何が生まれたのか。せっかく分離の中でかろうじて平和が保たれていた世界が、急激に狭い共同体の中で対立と衝突といがみ合いの世界になった。

どのみち人は、「うまくいかない相手」とは一緒になれるわけがないので、うまくいかない相手とは「生活空間を別にして、相手に不干渉で、しかし相手を尊重する」というスタンスを取るしかないのだ。

そうやって長い時間の中で分離したのが「国」だったのだが、その「国」の中に多文化共生という概念で異質な「者」をどんどん流し込んでいったのだから、問題がでない方がおかしい。

結局、どうなるのか。

アメリカは「人種の坩堝」とは言うが、居住地は資産や人種や宗教によってそれぞれが明確に分かれているというのは誰もが知っている。国の中で「分離」している。多文化共生と言っても、結局は国の中で分離してモザイク模様になっただけなのだ。

国の中でたくさんの「分離」を作って、結局は対立し、衝突し、いつまで経っても共生どころか対立が繰り返されている。

10年後、20年後、人類はこうした状況を克服して「誰とでも仲良く」という理想社会を作り出しているだろうか。私は予言者でも何でもないが、確信を持って「ノー」と言いたい。理想を持つのは勝手だが、現実は美しくない。

理想を語る人がいても悪くないし、そうした人が努力するのは人類にとっては良いことなので、そうしたい人は多いに理想を語って邁進して欲しいと思っている。しかし、現実を見据える人は理想ではなく現実を見るべきだ。

『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」(渡辺 靖)』

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