
「人とつながる」というのは、良いことばかりではない。なぜなら友達とつながるだけでなく、自分たちの価値観と相容れない敵対者ともつながることを意味しているからだ。敵対者とつながった結果、人は突如としてこの世の中に自分に対する憎しみや憎悪が満ち溢れていることに気づく。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
会ったこともない人間からもグローバルに憎悪される
皮肉なことに「つながり」を効率的に進めたSNSは、自分に敵意を抱く相手や意見がまったく違う相手とも容易につながってしまうので、逆に分断を生み出す装置となってしまっている。分かりやすく言うと、SNSが分断装置としても機能するようになった。
フェイスブックはSNSの王者だが、この企業は分断装置をビジネスにしたせいで世界中で嫌われる企業となってしまい、企業名を「メタ」に変えて「SNSの王者」という立ち位置を捨ててしまった。
しかし、すでにパンドラの箱は開けられてしまった。
SNSは社会に根深く定着し、これからも無駄に人々をつなげ続け、対立と衝突の最前線となるだろう。会ったこともない人間からもグローバルに憎悪され、それが可視化されて分断を深刻化させるのだ。
そうである以上、なるべく嫌われないようにして生きるスタイルは、これからどんどん難しくなる。
人間には人それぞれ意見や立場や主張がある。それは今までも対立や衝突を生み出してきた。何も主張しなくても、いかなる敵対行為をしなくても、私たちが「この国に属している」というだけで、嫌われるという事実もある。民族対立は人間の歴史を貫いて続いている。
拭い難い民族間の憎悪というのは、実のところ世界中でありふれたものだ。民族間だけでなく、人種間でも、宗教間でも、政治間でも、あらゆるものが対立要素となってすべての民族に憎悪を生み出す。
そして、その憎悪はSNSによって顕在化し、可視化される。インターネットとSNSが対立と憎悪を増幅し、拡大再生産させるのである。
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人「自分たちと違う者」と対立していた
インターネットは便利なネットワークだ。世界を瞬時につなぐ。そして、SNSもまた便利なシステムである。人々を瞬時につなぐ。
インターネットやSNS自体はつなぐ相手を選ばない。誰でも瞬時につなぐ。これはどういうことなのかというと、ネットワーク網による「グローバル化」であり「多文化共生」であるということだ。
インターネット=グローバル化
SNS=多文化共生
このような図式であると言える。世界はインターネットとSNS、すなわちグローバル化と多文化共生に覆われるようになって、国家間対立・人種対立・個人間対立のすべてがより先鋭化したと気づくべきだ。
結局、グローバル化・多文化共生が何を生み出すのかというのを分かりやすく考えたら、インターネットとSNSで起きている世界を見ればいいのである。インターネットとSNSで対立と分断が起きているのであれば、グローバル化・多文化共生をリアル世界で進めると対立と分断が起こるということだ。
グローバル化・多文化共生がまだ未発達な時代、人々は物理的に分断されて滅多に出会うことがなかった。相手のことはよく知らなかったし、会うこともないのだから関心すらも持たなかった。
相手が自分をどう思っているのかも、どんなことを言っているのかも何も知らなかった。だから、やり過ごせていた。
ところがグローバル化と多文化共生がやってきて、ヒト・モノ・カネが全世界で交わるようになっていき、インターネットやSNSによって見知らぬ人たちの「考え方」がダイレクトに伝わってくるようになったのである。
すると人は、突如として「自分たちと違う者」を発見し、自分を嫌う相手と出会うことになったのだ。そこから不幸が始まった。
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自分がいかに嫌われているのかを知ることができる社会
「人とつながる」というのは、良いことばかりではない。なぜなら「友達とつながる」だけでなく、「自分たちと違う人間」「自分たちの価値観と相容れない人間」ともつながることを意味しているからだ。
つながった結果、今まで知ることのなかった自分に対する憎しみや反対意見や拒絶を、人々はワールドワイドに、リアルに、生々しく突きつけられるようになった。そして、人は突如としてこの世の中に自分に対する憎しみや憎悪が満ち溢れていることに気づくのだ。
ここ最近、全世界で憎悪が満ちるようになったのは、驚くべきことではない。それは、グローバル化と多文化共生がもたらした負の側面である。人は会わなくてもいい人と出会うようになったのだ。人は知らなくてもいいことを知るようになったのだ。
「SNSなんかなかった時代の方が幸せだった」と私に述懐した人もいる。確かに、SNSがなかった時代、人は自分の身のまわりのほんの小さな世界で生きていた。人は自分の小さな地域、小さな共同体(コミュニティ)の中でこじんまりと生きていた。
ところが今はインターネットがあってSNSが社会を覆い尽くした。自分が何気なくつぶやいたひとことは場合によっては数十万人、数百万人が目にすることになる。その結果、何気ない「ひとこと」がまったく意見の違う人間の目にも触れるようになる。
ある発言が、それらの人たちの感情を害するようになると、やがては激しく炎上するようになっていく。
良いことでも悪いことでも、加速度的に拡散していくのが情報化社会だ。どちらかと言えば、悪いことの方が拡散しやすい傾向にある。そのため、有名無名に関わらず、すべての人が敵を作り、激しい勢いで自分を嫌う人が膨れ上がっていくのを目撃することになる。
グローバル化と多文化共生は、自分がいかに嫌われているのかを知ることができる社会が到来したということなのである。
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誰もが、誰かに嫌われる荒廃した社会が到来している
グローバル化と多文化共生は止まらない。そのため、この世界で生きようと思うと、誰かに嫌われ、憎まれ、攻撃されることを前提に生きなければならない。この事象に関しては、すべての人が巻き込まれる。誰もが、誰かに嫌われる荒廃した社会が到来しているのだから、誰もが他人事ではない。
グローバル化・多文化共生が定着すればするほど人は異質と混じり合うようになる。そして、対立と衝突と憎悪が互いに飛び交う荒んだ世界が広がる。社会はより対立と衝突に満ちあふれて荒んでいく。
憎悪が飛び交う中では相互理解や共生共存は絵空事でしかない。グローバル化・多文化共生の社会が変えられないのだとすれば、私たちはもう誰もがこのような社会で覚悟を決めて「適応しなければならない」のである。
『生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである』と言う。
グローバル化・多文化共生が生み出す荒廃した世界では、憎悪や批判や中傷や罵詈雑言を浴びても何とも思わないか、もしくはうまく対処できる人間だけが生き残る。
真逆の価値観、相容れない感性、譲れない信条、深い拒絶心がワールドワイドに結びつくのがグローバル化・多文化共生=インターネット・SNSである。話し合って何とかなるわけでは絶対にない。最初から憎まれていることすらもある。
憎まれている上に価値感を共有していないのであれば、相手との相互理解や共生共存は絶対に得られない。関われば関わるほど対立は激化し、禍根を残すだけだ。
感受性の強い人や、自分に敵意や憎悪や中傷を向けられると夜も眠れなくなるような人は、生き方や考え方を変えなければならない。
敵意や憎悪や中傷が渦巻くのだから、繊細な感受性のままではとても生き残れない。憎悪の中で生き残る体質に自分を変えていかなければならないのだ。
憎悪にまみれた相手に対して好かれようと思っても、それは無駄な努力だし意味がない。折れれば「弱い相手」と見なされて、よけいに踏み込んできて相手をつけ上がらせることになる。
グローバル化・多文化共生=インターネット・SNSの時代となり、明確に「対立と衝突が避けられない時代」に入っているのだから、自分を憎悪の中で生き残る体質にしていく努力は必須のものとなった。
なるべく嫌われないようにして生きるスタイルは、これからどんどん難しくなるので、そういうのは目指してはいけない。それがグローバル化・多文化共生の時代に被害者となるスタイルなのだから……。

私、いぜんからフェイスブックとかSNSとか、そんな友達とかつながりたいんだろうか、つながっておもろいんだろうかとずっと疑問に思ってました。しかもフェイスブックとかは、こいつは友人じゃないですか?と勝手に押しつけてくる、こんなのストーカーですよ。なのでフェイスブック辞めました。今でもやっている人は個人情報も抜かれてます。つながりもほどほどにせいやと思います。変なのとつながりたくないです
何を企んでいるか知らないが、「何とかして人々を繋げよう」とする気味の悪い意図が見えて、ソーシャルネットワークシステムたら言うものは全く信用できません私は。
わかった上でその上手を取り、活用している善意の方々も多いでしょう。ですが悪用する者らもいるし、絡み取られて病む人々もいる。
孤独であること、ひとり寂しいなと思うこと、それは悪ではないはずですし、実はどうでもいいような有象無象と数繋がりゃいいってもんじゃないでしょ(笑)それが何を埋めてくれるというのか。
ぼっち?極めたそれは孤高っていうんですよ!
確かに。。。
尊敬している人物が、日本を大事にする余り、韓国を敵対視する姿勢を見て、
「でも、韓国の人だってみんな悪いわけではないし客観的に見たらどうか」と言ったけど、
彼の価値観の中では、韓国の対アナがつくものはみんな敵なのだそうです。
それを聞いてびっくりしたことは否めません。
いくら中国や韓国人が悪くて嫌いでも、みんながみんなそんな人ではないわけで、それを十把一絡げに「悪い」と決めつける思考は、私は間違ってると思います。
つながるということは確かに相手の悪いことも見えてくるけど、そこは冷静に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」は、絶対に避けていただきたいです。
私もそんなふうには絶対に思わないので。
本当にそうですよねぇ。凝り固まってる人の思考パターンはジャンルを問わず似たり寄ったりです。
○○運動家に対して、そのあまりに独善的な活動内容に疑義を呈すると、
平和運動家「じゃああなたは戦争に賛成なんですねっ!」
へミニスト「じゃああなたは女性が永遠に虐げられて構わないんですねっ!」
エコ活動家「じゃああなたは将来地球が住めない環境になってもいいんですねっ!」
自称愛国者「俺の意見に賛同しないとは、さてはお前在日だなっ!」
…そんなこと誰もゆうてませんがな
もちろん戦争回避も弱者擁護も環境保護も祖国防衛もぜんぶ大事なこと。
だけど、一部の勘違い暴走運動家が偏執的な言動をすることにより、○○運動そのものが世間から胡散臭い目で見られているというのが現状ですね。
特に自称愛国者。韓国のKの字でもあれば(場合によってはなくても)顔真っ赤にして罵詈雑言を撒き散らすのを皆さんもご覧になったことがあると思います。地道に状況を改善しようとしている保守愛国者にとっては迷惑千万な輩です。もっとはっきり言えば、彼らのやっていることは祖国の立場を不利にする利敵行為です。
いずれは気づいて本当の意味での愛国者になってほしいですが、宗教の狂信者と同じ思考パターンに陥っているので、望み薄かなと思っています。
本当にそう思います>自称愛国家
後、そういう自称愛国家は異様にミソジニー(女性蔑視)が多いのも特徴ですね。
私の知ってるケースで、そういうのにほとほと嫌気がさして、「日本の美しい景色とか四季とか治安の良い所は好きだけど、ちょっと声出すと女が意見するなとか、意見が違う人にすぐ朝鮮だ在日だと決めつけてかかる連中に嫌気がさした」と言って、保守活動をやめてしまった人もいましたよ。
私も同じように思ったことは何度もありますし。
「何でこいつらを喜ばせてやるようなことを言わんとあかんの」って。
自陣営の勢力を削ぐ、まさに「利敵行為」ですよね。
後、SNSの話ですが、私はmixiやってますが繋がりを持つかどうかはその人の過去の投稿や各ニュースへの呟き内容などを見て判断します。
不必要にホイホイ繋がりを増やす真似はしませんし、周りにもそういう人は置きたくないと思います。
というのも、私はマイミク(ツイッターで言うところのフォロワー)は友人だと思っているのですが、なんでもかんでもホイホイと繋がりを増やす奴相手に友人とするようなバカ話の気分で乗っかったら、クソ真面目に横槍入れてきて揚げ足取りまくる気持ち悪い奴とか出てきますからね。
FBで友達が数百人いますって、それ友達じゃなくて殆どは顔見知りでしょ?
ブログの「いいね」の数を競うのも意味わかりません。
見ず知らずの、実際は犯罪予備軍や人格障害の怖い人かも知れない。
友達とは互いに個人的な事情も知っていて似たような価値観を持っていて楽しめる間柄。
殊更気を使うことなくリラックスして対話できる間柄。
そのような人間関係には物理的に数が限られてきますからね。
良い朝鮮人がいる?そりゃそうよ。
だけど奴らは集団になると反日で日本を攻撃してくるんだよ!
ネットの拾いモンだけど、
靖国参拝批判
天皇土下座
仏像返せ
金塊密輸
レーダー照射
ホワイト除外の日本抗議デモ
売春婦像
愛知トリエンナーレ
旭日旗因縁
徴用工問題
東京オリンピック揶揄
日韓合意破棄
GSOMIA破棄
日本の果物のパクリ栽培
こんなにやられてんだよ、日本は!
日本人はマゾかよ?
良いチョンコも悪いチョンコもない
反日で迷惑してんだから追い出せは当たり前だのクラッカー
賛成します。
日本は舐められ過ぎです。
やられているのでやりかえします。