多文化共生という実験が無駄になる8つの理由。最後は国の中で文明の衝突が起こる

多文化共生という実験が無駄になる8つの理由。最後は国の中で文明の衝突が起こる

異民族は自分たちの民族とはまったく違う存在である。相互理解が難しく、ストレスが溜まるケースが多くなり、相手の激しい自己主張に接するようになっていくと、遅かれ早かれ衝突が避けられなくなってしまう。それが欧米の多文化共生の現場で起こっていることだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

大量の移民は「文明の衝突」が国の中で起こるだけ

あくまでも一般論としての感想を述べれば、日本人は超能力を持っているのではないかと思うほど人の心を読むのがうまいし、協調性を重要視するという特質がある。特に日本女性はそういった気質を持っていて、一緒にいると心地良いことが多い。

インド圏をうろうろしたあとに日本に戻ってくると、ただの店員の態度ですらも感銘する。おつりはきちんともらえる。待たされることもない。物腰もていねいで、時には笑みまで浮かべてくれる。タカられる心配も、邪険に扱われる心配もない。

それだけでも「なんという素晴らしい国だ」と感動する。

島国で異民族と隣接しない単一民族の国民は、そういう穏やかな気質を持った民族性になるのではないかという気もしたが、イギリスやらインドネシアを見ると、それほど穏やかでもなさそうなので、たぶん大和民族の特質なのだろうと思う。

他の民族は日本人ほど奥ゆかしいわけでもなく、感情の機微に敏感でもなく、自己主張はかなり激しい。相手に合わせるよりも自分の流儀を貫こうとするし、思い込んだら折れないし、気の短い人もかなりいる。

日本人は自分の感情を殺してでも、相手に合わせる癖を持っているということになる。気質が合わない人とでも、無理して付き合っていこうと努力できるのが日本人なのだ。日本人は、自分の限界まで我慢しても相手を立てる忍耐力を持ち合わせている。

しかし、そうは言っても日本人もまた人であって感情を持っていることも事実だから、いつかは爆発したり、心が折れたりする。合わせる努力にも限界はある。

今、しきりに多文化共生だとか多様性だとかダイバーシティだとか言われているのだが、それが不可能であることは欧米の荒んだ状況を見ても分かるはずだ。大量の移民は「文明の衝突」が国の中で起こるだけなのである。

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こうした「違い」は長い年月で埋められると思ったら大間違いだ

人種の違い・文化の違い・伝統の違い・宗教の違い・考え方の違い……。それぞれの民族が持つそれぞれの特質は共生できるものもあればできないものもある。真逆の考え方を持つ人種が入ってきたら、対立は間違いなく起こる。

それを左翼・リベラル・フェミニストは「話し合えば分かる」とか「お互いに努力すれば共生できる」と言うのだが、最初から対立構造を抱えた民族が一緒になったらうまくいくはずもない。

行動も考え方も真逆であると多文化は共生はできないのである。

本来は、こういった「真逆の存在」と付き合ったところでうまく行くはずもない。水と油が時間が経つと分離するように、真逆な人間同士は自然に分離していく。だから、今まで人々は国と国で分離していたとも言える。

あらゆる点で違う者同士では、大きなことだけではなく、些細なことであっても、感覚が違いすぎて互いに相手を理解できない。同質な者同士ではすんなりと分かり合えるものが、いちいち対極的な捉え方になる。

根源的な部分では理解し合えないし、意識していないところでは理解がずれる。些細なことで相互理解ができないのだから、それが積もり積もっていくうちに、どうしても相手にストレスを感じるようになっていく。

うまく歯車が回らないのだから、それが互いのストレスになっても当然なのだ。どちらも自分の感じ方が正しいと思っているから、そういった部分でずれると相手に違和感しか感じなくなっていく。

こうした「違い」は長い年月で埋められると思ったら大間違いだ。埋められないから国は分離して長く別々に暮らしていたのである。子供みたいなお花畑思想はいい加減にした方がいい。

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相手に対してかすかに持っていた尊敬や遠慮すらもなくなる

共生は短期間であればうまくいくかもしれない。人生観・宗教観・伝統感・思想信条などに違和感があったとしても、その違和感は「相手は自分にないものを持っている」という好意的な理解で無理やり納得させることもできるからだ。

しかし、次第にそれは「自分にないもの」ではなくて、自分とはまったく別種のものだったことに気付く。確かに自分とは違うものを持っているのだが、その違いの中に決定的に自分と合わないものを発見してしまう。

異民族は自分たちの民族とはまったく違う存在なので、いずれその違和感は払拭できなくなる。相互理解が難しく、ストレスが溜まるケースが多くなり、相手に違和感すらも感じるようになっていくと、やがては衝突が避けられなくなってしまう。

それが欧米の多文化共生の現場で起こっていることだ。

小さな対立が増え、それはやがて大きな衝突になっていく。修復ができないほどの衝突となっていく場合も多い。ここまで来ると、相手のやること為すことのすべてに反撥を覚えることになる。

相手のやることが「敵対的に見える」のである。我慢がならないし、巻き添えになりたくないという反撥がどんどん心の中に湧いていく。やがて、相手に対してかすかに持っていた尊敬や遠慮すらもなくなっていく。

相手が何をしても共感できないし、「違う人間だ」という部分を配慮で補えなくなる。ここまで来ると、相手に対する誤解も続出して、そこから憎しみも募っていく。違う民族とは、長い年月を経れば経るほど溝が深まり、埋めがたいものとなり、最後には人間関係が破綻する。

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大和民族は優しいので共生は可能だというのは甘い認識である

多文化共生は最初から破綻する考え方だ。他の国では一瞬にしてそうなるのかもしれないが、大和民族は我慢強いので長い年月を無駄にして、最後の最後に破綻することになる。いずれにしても遅いか早いかの違いだけで破綻は確実なのである。

多文化共生の悲惨なところは、いったん民族的対立が国家の内部で起こっても、相手は国を出て行くことがないので延々と対立が続き、やがてそれは憎悪にまで発展していくことになることだ。互いに逃げ場所がない。

多文化共生というのは、やがてはスリランカで起きたように数十年に及ぶ民族戦争を生み出すのである。多文化を一緒にするのは「混ぜるな危険」なのである。最初からボタンの掛け違いになっているのと同じで、多文化共生をやればやるほど事態は深刻になる。

多文化共生という実験が無駄になる理由をまとめると以下の通りになる。

1. そもそも最初から理解しあえない。
2. 宗教・伝統・文化の根源的な部分で永遠に合意できない。
3. 合意できないが故に互いにストレスがたまっていく。
4. 互いにマウントを取り合い、自己主張ばかりになる。
5. 衝突の回数が増える。
6. 相手の存在自体に憎悪を募らせるようになる。
7. 次々と起こる対立の事件で修復が不可能になる。
8. 暴力抗争が恒常化して殺し合いになっていく。

多文化共生を無防備に受け入れていると、大量の移民が定着して突如としていくつもの問題が表面化して対立の構図は必ず生まれる。大和民族は優しいので共生は可能だというのは甘い認識だ。限度がある。

人口侵略されるほどの移民が流入すると、国内は「文明の衝突」で荒廃する未来しかない。そうであれば、それは今こそ拒絶すべきなのである。

コロナ禍が明ければ、日本政府の隠れ移民政策はどんどん加速する。この流れが10年続くと、日本という国はまったく違ったものになっているだろう。

書籍
『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム(中野 剛志)』リベラル一辺倒だった欧米も、リベラルへの懐疑と批判と見直しの機運が高まりつつある。何事も極端(エクストリーム)を追求すると、凄まじく醜悪なものが誕生するのは世の常だ。リベラルも極端に走りすぎた。

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