世界人口の62.5%は、「平和が第一」とはまったく思っていない

世界人口の62.5%は、「平和が第一」とはまったく思っていない

最近、また気になったことがある。「平和」に関する日本人の認識だ。次の元号が「令和」に決まって、日本人は「平和への祈りが込められている」と世界に誇っているのが、とても無邪気で無防備に感じた。

平成の「平」は平和の「平」だ。令和の「和」は平和の「和」だ。いずれも日本人に平和思想が強く根付いているというのが分かる。平和であることは良いことだと日本人は思う。そして、平和を願うことは当たり前だと日本人は信じて疑わない。

もうひとつ日本人が疑いもしない言葉に「平等」というものがある。平和と平等は美しい概念であり、世界中の人たちがこの概念を一緒に追求していると日本人は信じているかも知れない。

しかし、現実はそうではない。平和と平等の限りない追求は日本独自のものであって、世界は必ずしも「平和と平等」を第一に追求しているとは限らない。受け入れられない可能性もある。

「受け入れられない」と言うと多くの日本人は仰天するはずだ。「平和であることや、経済を優先することや、平等であることがなぜ受け入れられないのか分からない」と思うはずだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

平和よりも、もっと大切なものがある?

なぜ受け入れられないのか。それは、世界は「そんなもの」よりも、もっと大切なものがあると考える国も多いからだ。平和や平等や経済よりも、大切なものなどあるのか。もちろん、ある。

平和よりも大切なもの。イスラム教徒に聞けば、それは「神であり宗教である」と答えるだろう。その点に関しては絶対に妥協はない。

イスラムを侵す者があれば平和より闘争が優先されるのだ。宗教が優先される。そして、コーランは人間が平等など一言も書いていない。平和よりも、平等よりも、イスラムが大事であり、重要であり、神聖なのだ。

イスラム教徒の人口は全世界で約15億人。すなわち、日本の12.5倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としないということだ。すなわち、「価値観が違う」のである。

ところで、人口10億人を抱えるインドではヒンドゥー教が主流となっており、ここにシーク教やイスラム教やジャイナ教が絡んでインドが構成されている(仏教はインドでは少数)。

これらの宗教もまた「平和よりも大切なものは、神であり宗教である」と考えている。インドに根付くカースト制度を見ても分かる通り、人間が平等だとも考えていない。要するに、ここでも日本人の価値観とは違う価値観がある。

日本の人口の約8.3倍の人口が、日本人の持つ価値観とはまったく違う価値観を信じているということだ。

キリスト教はどうか。キリスト教は平和主義だろうか。

キリスト教が平和主義だったら、中南米は侵略されなかったし、アジア・アフリカは植民地にされなかったし、日本は核爆弾を2発も落とされたりしなかったはずだ。

彼らはキリスト教を信じない異教徒は虐殺しても奴隷化しても構わないという特異な特権意識を心の奥底に持ち続けて歴史を育んできた。それが過去の話であればいいが、今もまたそういった意識を心の中で持ち続けている可能性がある。

キリスト教徒の人口は世界で約20億人。すなわち日本の約16.7倍の人口が、平和を優先しないし平等であることも是としない。

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62.5%は日本人の価値観を理解できない

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の3大宗教だけで、約45億人。世界人口が約72億人だとすると、それだけで人口の62.5%を占めている。この62.5%は日本人の平和への無邪気な盲信から一線を引いている人口であると言える。

残りの37.5%も、平和や平等が正しいと思っているかどうか分からない。

むしろ、我々の神を信じない異民族は滅びろとか、イデオロギーが正義だとか、戦争で他民族を打ち負かすことが正義であるとか、他から奪うのが正義だとか、自分の一族だけが栄えるのが正義だとか、そのように思っている可能性が高い。

神よりも平和を優先したいと思う民族は、世界ではまったくの「少数派」である。日本が異質だと言われるのは、そこから来ている。日本人が思っている世界と、現実が乖離しているのだ。

そして「平和や経済や平等」を世界に押しつけるのは、世界にとっては「冒涜」だと思われる可能性が高い。なぜか。「信仰や神よりも平和や経済を優先せよ」というのは、神が侮辱されても信仰が侵されても戦うなということだからだ。

また、「人類はみんな平等だと思え」というのは、自分の神を信じていない人間も自分と同じレベルであると認めることになる。神を熱烈に信じる自分と、神を信じない「未開人」が平等であるとは彼らは本音では認めないだろう。

ユダヤ教もキリスト・イスラムと同じ神を信じているが、このユダヤ人は神を信じない人間を「家畜」だと考える風潮もあった。「ゴイム」と彼らは異教徒を呼んでいたはずだ。日本以外の多くの国では、それほど神は重要な存在である。神以上に重要なものはない。

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平和は決して第一優先ではない

「平和や平等」は、実に建前的なものだ。それが唱えられた時は、誰も意固地になって反対しない。

しかし本音の部分を言うと、平和や平等は信仰やイデオロギーが優先される社会にとって害悪であり社会を崩壊させるものである。

もちろん世界の多くの個人は、ほとんどが平和な社会や平等な社会を望んでいるのは間違いない。略奪と暴力が横行する社会では強者と強運者しか生きられない。ある程度の平和がなければ人生は過酷なものになる。

しかし、自分のアイデンティティを構築している宗教や共同体が侵されるとなると話は違ってくる。平和よりも前に、宗教や共同体が優先される。

これらが維持された中で、次に平和が来るのであって、平和が最優先ではない。

ちなみに、日本以外の国々で言われている「平等」というのは、日本人が言う平等とは程遠い。同じ言葉なのだが、概念が違っている。世界の人々が言う「平等」とは、「機会が平等であること」を意味している。

全員が同じ収入や、全員が同じ生活水準であることを世界の人々はまったく望んでいない。

「スタートは平等であるべきだが、結果は平等であるべきではない」というのが欧米先進国の考える平等なのである。だから、欧米では「一億総中流」のような考え方はない。ひとりひとり個人の能力も嗜好も目指す目的も生き方も時代も何もかもが違う。

だから、結果は違って当然で、結果を同じにする平等とはむしろ個人の自由を奪うものであると考える。「機会の平等」であって「結果の平等」はまったく違うものである。

現代の日本的倫理観は、あくまでも現代の日本人が考えるものだ。これが異質だと気がついていないのは、当の日本人だけかもしれない。

日本人はあまりにも無邪気に「平和や平等」を口にするが、それが日本人の「見識のなさ」であれば悲しいことだ。

自分の信じている宗教を侵されたら平和よりも闘争が優先される。自分たちの共同体が侵されたら平和よりも闘争が優先される。

この感覚が分からなければ、自分の国が侵される時のことを思い浮かべればいい。国というのは巨大な共同体である。この「共同体=国」が侵略されたら、平和主義者であっても侵略者と戦って当然だ。侵略されても戦わないというのは、おかしいと思わないだろうか?

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。

そういった意味で、すべての日本人が狂信的に「平和」という理想を疑わなくなっている時流を憂う。これが理解できないのであれば、日本という国は100年後は消えている。(written by 鈴木傾城)

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。

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