映画『太陽の墓場』。大阪のドヤ街『釜ヶ崎』を描いた1960年の生々しい映画

映画『太陽の墓場』。大阪のドヤ街『釜ヶ崎』を描いた1960年の生々しい映画

2014年7月、大阪を訪れて大阪環状線に乗っている時、今宮駅で人身事故が起きて電車が1時間以上も再開不能になったことがあった。

仕方なく電車を降りて、たまたまその時に停まっていた駅「新今宮」で降りて、街をぶらぶらしてみた。(ブラックアジア:大阪。あいりん地区と、飛田新地に寄ったので歩いてみた

それが私と「あいりん地区=釜ヶ崎」との初の出会いだった。それまで私は日本の貧困にはほとんど関心を持っていなかったので、この新今宮の目の前に広がる光景が「日本最大のドヤ街」であったことを知らなかった。

「釜ヶ崎」については噂では聞いていたので知らないことはなかったのだが、まさか偶然降りた駅がそうだとは想像もしていなかった。そこが、日本最大のドヤ街であるのは一瞬で理解した。

目の前に巨大な要塞みたいな建物が建っていて、そこには「あいりん労働公共職業安定所」と書かれていたし、駅を降りた瞬間に労働者の人たちがたむろしている姿があったのだから、気づかないわけがない。

私はふらふらとこの街をあてどなく歩き、たった1日でこの街に惚れた。東南アジアやインドの貧困地区とは比べものにならないほど清潔で衛生的で安全な街ではあったが、現代の日本の水準から見るとやはり何か空気感が違っている。その不思議な雰囲気が私の気質に合っていた。

以後、私は毎年のようにこの街を訪れるようになった。(ブラックアジア:鈴木傾城、あいりん地区で1泊1000円のタコ部屋に沈む

しかし、はっきり言おう。この街はもう完全に旬を過ぎていて、労働者の街というよりは高齢者の街、福祉の街と化していて、かつてあっただろう「むせ返るような猥雑さ」は完全に消失していた。

かつてはどんな雰囲気だったのだろうか。その私の好奇心を満たしてくれる映画があった。それが、『太陽の墓場』という映画だ。

『太陽の墓場』昭和35年・主演:炎 加代子

映画はこちらで観ることができる。(アマゾン:太陽の墓場

映像から浮かび上がってくる「貧困の光景」

この映画『太陽の墓場』の炎 加代子(ほのお・かよこ)という女優が主人公を張っている。彼女を軸に愚連隊(今で言うところの半グレ)の人間たちやドヤ街の人間たちが複雑に絡み合って、騙し騙され、手を結び、裏切りの物語を繰り広げるという物語だ。

ただ、私自身は物語自体は特に関心がない。私がこの映画に求めていたのは、「当時の釜ヶ崎の光景」だ。「旬」だった頃(1960年代)の釜ヶ崎の光景が見たかった。

どうだったのか。

結論から言うと、本当に釜ヶ崎でロケをしたというこの映画は、私の欲求を存分に満たしてくれた。もし、ドヤとして機能していた釜ヶ崎の空気感を知るのであれば、この映画はまさに最適な「教材」であるとも言える。

この映画のレビューには、この映画は最悪だというレビューがある。一部を抜き出すと以下のような内容が書かれている。

『私はノーサンキュー。到底ついて行けない。酷すぎる。汚すぎる。人を騙し奪い殺し逃げて恥じぬ人間。彼らが世の中を変える主体になる?世の中を変える力になる?ふざけるな。笑わせるな。こんなことは、たとえ戦後15年しか経っていない昭和35年でも「日本の現実」とやらではなかったぞ。歪み、矛盾、恥部ばかりを誇張するこの社会観・国家観。実はこれは鼻持ちならぬエリート意識と前衛意識、そこから生じる身勝手な苛立ちの裏返しなのだ。現実に対して「覚醒」せず日本という「穢土」を這いずり廻る愚かな「大衆」を見下げる。自らは前衛の自覚と気概に陶酔しつつ身勝手に苛立つ。つまりは独りよがりの「赤い貴族」の驕慢の表出なのだ』

「歪み、矛盾、恥部ばかりを誇張するこの社会観・国家観」とある。

実を言うと、私はまったくそのように思わなかった。貧困というのはそういう世界であるというのは、私は東南アジアやインドの貧困街でリアルタイムに体験してきたことであり、そういう意味で貧困に忠実であると思えた。

さらに「到底ついて行けない。酷すぎる。汚すぎる」とも思わなかった。逆だ。私には東南アジアの貧困を思い出して、この映画には懐かしさや親近感すらも覚えたのだ。この映画に愛着心すらも覚えて打ち震えた。

もし、ブラックアジアの読者で、コロナで自粛・休業・ステイホームを余儀なくされている人がいるなら、この映画はブラックアジア的な映画であるとして「文部省推薦映画」ならぬ「鈴木傾城推薦映画」の1つとして提示したい。

映像から浮かび上がってくる「貧困の光景」を見つめてほしい。

 1960年(昭和35年)、釜ヶ崎の光景

何かの工場跡が残されている。1960年代の大阪では、こうしたところから鉄を盗んでは売る人たちが大勢いて、彼らは「アパッチ族」と呼ばれていた。
この建物は恐らく映画用に作られたセットだと思うが、昭和35年頃の釜ヶ崎には、こうした建物が大勢あったということなのだろう。1990年代のカンボジアのスラムのようだ。
この当時の子供たち。ドヤの子供たちよりもやや豊かな子供たちに見える。
萩の茶屋は今でも駅名で残っている。釜ヶ崎を南に入ったところだ。
真向かいに見えるのは新世界にある通天閣だ。この映画は1960年制作だが、通天閣が完成したのは1956年だという。当時は低層の建物が多かったので、今よりもことさら目立っていたのが分かる。
高架線下。昭和35年と言えば戦後15年目だが、この頃はもう大阪はこのような光景だった。私は意外に発達していたのかと意外に思った。
女性が走っている右側が線路沿いなのだが、線路沿いにバラック小屋が建ち並ぶ風景は、東南アジアでもお馴染みだ。なぜ、線路沿いにこうした光景が現れるのかは、以前にも書いた。(ブラックアジア:なぜ途上国では線路沿いのうるさい場所に人が住み着くのか
上記のドヤの燃え跡。電信柱やドラム缶が時代を感じさせる。
釜ヶ崎の朝。仕事を求めて労働者が大勢集まるのだが、この当時からこのような光景が広がっていたというのが分かる。これは映画のエキストラではなく、本物の労働者たちに見える。
当時の愚連隊は、売春する女たちを閉じ込めて売春させてはその上がりを搾取していたというのがこの映画で分かる。
売春は新世界の路上で行われていたというのも映画を観て分かった。ちなみに、飛田新地はこの映画には出てこない。
高所から見た当時の大阪の光景。戦後15年。釜ヶ崎は時代から取り残されてしまっていたが、この時代は高度成長期に入ったばかりで好景気に沸いていた頃だ。
すでに女性の背景にあるような巨大な高架線も建築されていたことが分かる。
川沿いの廃品工場。釜ヶ崎に近い川は地図で確認してみると「木津川「だ。木津川の周辺はこのような光景になっていたようだ。この木津川を渡ると、向う岸は大正区。この大正区は沖縄から来た労働者が集まる場所である。
ドヤの子供たちの映像。当時のドヤには子供たちだらけだったというのが分かる。年齢から見ると、彼らこそが団塊の世代である。
当時のドヤの子供たちの遊び。
木津川の荷物運びをする労働者たちの光景。映画では、彼らの何人かを金で釣って売血させていた。男は売血、女は売春。これは2000年代のインド・コルカタで見られたのと同じ光景だ。貧困の光景は変わらないということか。
映画のロケではない、本物のドヤの光景。この映画では随所にこうした映像が挟み込まれていてリアリティを出している。
ゴザを敷いて衣服を売る商人。この光景は今も泥棒市として続いている。(大阪のドヤ街「あいりん地区」はどんな光景だったのか?

それにしても、本当に興味深い映画だった。この映画を観て、釜ヶ崎(現:あいりん地区)の魅力にますますとらわれた。

日本は今後はゆっくりと貧困に向かっていくことになるのだが、こうした光景に戻っていくのだろうか。もし、そうだとしたら、この映画の光景は過去の光景ではなく、「未来の光景」であることになる。

炎 加代子(ほのお・かよこ)という女優からは非常に強いインパクトを受けるが、この女優の名前は初めて知った。調べて見ると、どうやら1964年で女優を辞めて、今はどこで何をしているのか消息不明なのだそうだ。

映画界や芸能界などからきっぱりと身を引いて以後は表面(おもて)に出てこない。なかなか鮮烈な生き方だ。この映画の主人公にダブる。

炎 加代子(ほのお・かよこ)という女優からは非常に強いインパクトを受けるが、この女優の名前は初めて知った。調べて見ると、どうやら1964年で女優を辞めて、今はどこで何をしているのか消息不明なのだそうだ。

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