アルゼンチンに生まれ、カストロと共にキューバ革命を成功させた筋金入りの革命家、チェ・ゲバラは幼児の頃から喘息に苦しむ少年だったが、異様なまで激しいスポーツを好む性格があった。じっとしていられない子供だった。
大学は医学部に入学したのだが、この頃にオートバイでラテンアメリカを放浪して回り、医学部を卒業してからも、再びラテンアメリカを放浪して回った。その後、メキシコでカストロ兄弟と出会うと、危険な革命に身を投じるようになり、死の危険の中でキューバ革命を成し遂げている。
ところで、こんなことを思わないだろうか。
戦場は非常に過酷な場所であり、飲み物、食べ物もゆっくりと取れず、深刻なケガをする確率も高く、神経が休まる暇もない。しかも場合によっては敵と向かい合って撃ち合い、殺したり殺されたりする。
だから、誰もこんな「仕事」に自分から就きたいと思わない。まして、ゲリラ部隊は正規軍と違って装備される武器も限界があり、死の危険はことさら大きい。もし、「ゲリラ」も職業であるとしたら、そんな仕事は誰も就きたいと思わないはずだ。
しかし、そんな「誰も就きたがらない仕事」なのに、チェ・ゲバラのように、少なからずの人間が過酷な現場に浸りきり、のめり込むのである。なぜ、そんなところに行きたいのだろうか?
過酷で、危険で、悲惨で、極限的
チェ・ゲバラだけではない。一度、戦場に送り込まれた人間の中には、ある一定数の「戦争中毒者」が生まれるというのはよく知られている。彼らは過酷な戦場で戦うことを欲して、身体も、考え方も、常識も、すべてが「戦場」という場所に合うようにチューニングされていく。
だから、戦場から外されて平和な世界に戻っても、まったく馴染めなくて、またもや危険な戦場に戻り、それで満足する。チェ・ゲバラもそうだった。
根っからの「革命家」だったゲバラは安定した環境にはまったく関心がなく、次々と「戦場」を求めてさまよっていた。1966年にはアフリカのコンゴにいた。コンゴ動乱に参加していたのである。
1960年代は東南アジアのベトナムで共産主義者ホー・チミンが強大なアメリカを相手に戦争を続けていた。ゲバラは「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを作れ!」と1967年4月16日、三大陸人民連帯機構から世界に向けて叫んだ。
『どこで死がやってこようと我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう』
結局、革命を追い続けてきたチェ・ゲバラは、ボリビアで「反体制ゲリラ」として捉えられて銃殺された。39歳だった。
チェ・ゲバラは医者の免許を持っている。だから革命家にならなくても医者として平穏な人生を送ることもできた。しかし、そうしなかった。チェ・ゲバラはキューバ革命を成功させた。だからキューバでカストロと共に政権の座に座っても生きていけた。しかし、そうしなかった。
戦場は、誰が考えても、過酷で、危険で、悲惨で、極限的な場所である。そんなところに誰も行きたくないと思う。しかし、チェ・ゲバラはそうではなかった。まさにその極限(エクストリーム)を求めていたのだ。
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自ら身を投じて突き進んでいく人間がいる
過酷であればあるほど、中毒のようになるケースはチェ・ゲバラのような戦場の兵士だけではない。たとえば、スポーツの世界でも、ボクシングや格闘技は誰が見ても危険なスポーツに見える。
ボクシングは、人間のもっとも重要な器官である「脳」を互いに殴り合うゲームである。顔面を殴り合い、脳にダメージを与え、相手が立てなくなるまで痛めつけるゲームだ。もちろん、自分が痛めつけるだけならばいいが、往々にして自分もまた痛めつけられる。
試合中はもちろんのこと、練習中も殴られ、叩かれ、しかもロードワークから減量まで、人間の身体をこれでもか、これでもかと痛めつける。トップに立って大金を儲けることができるプロはほんのわずかだ。
それで、こんな割の合わない野蛮なスポーツは廃れているだろうか。
いや、廃れるどころか、大勢の男たちがボクジング・ジムの門を叩いている。過酷で、危険で、悲惨で、極限的なスポーツに自ら身を投じて突き進んでいく人間がいるとは思えないが、それが「いる」のである。
彼らはまるで中毒になったかのように、過酷な世界から抜け出さない。ハマったら、抜けられない。カネのためだろうか。もちろん、カネも重要な要素であるのは間違いない。
しかし、彼らはそれだけではない「何か」を求めている。それは何か。極限的な環境だ。殺すか殺されるか。生き残れるか死ぬか。その極限(エクストリーム)こそが彼らの原動力になっている。
チェ・ゲバラと同じだ。
『戦いに行くために、快適な生活を捨てる覚悟のある者だけが、革命家の名に値する』
1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから
新奇性とスリルを求める人々
生き残れるかどうか分からないような極限(エクストリーム)の極地に立って、自分の生死をその瞬間に賭けたいという人間はいる。中東に突如として誕生した超暴力武装集団「ISIS」は、世界中からそうした志願者を集めていた。
このような人間がいることを、普通の人は理解できない。しかし、彼らは「地獄に行きたい」と叫ぶ。こうした人間を「戦争の犬」と言うのは、よく知られている。戦場で犬のように嬉々として走り回るのである。
アメリカのCIA(中央情報局)も、こうした戦争の犬を使って、途上国や戦乱国家でアメリカの正規軍が表立って動けない時に、ひとつの駒として使っているのは有名だ。途上国のクーデターや暴力デモの背景には、こうした戦争の犬が暗躍している。
極限(エクストリーム)に取り憑かれる人間は、いったい何に取り憑かれているのか。
言うまでもない。「スリル」である。
そのスリルは常に「死」と隣り合わせとなっている。テンプル大学のフランク・ファレイ教授は、危険なスポーツにのめりこみ、新奇性とスリルを求める人々をスリル(thrill)の頭文字を取って「T型人格」と定義した。
「T型人格」はスリルに大きな快楽を持つ。その快楽は危険であればあるほど強い。そのため、常に死を試すようなスリルを求める。つまり、こういうことになる。戦争中毒になった職業軍人は、戦場に「スリル=快楽」を感じている。
過酷であればあるほど、スリルが身体を痺れさせ、強烈な快楽を覚えてしまう。もうそこから離れたいとは思わないし、離れるどころか他人が止めても突き進んでいく。「危ないから行くな」と言われても、スリルの中毒になってしまっているので本人も止められない。
かくして、ボクサーはパンチドランカーになっても引退せず、ゲリラは撃たれて死ぬまで戦場を巡る。そして、最後はスリルによって散っていくのである。世の中は、一定数「T型人格」の人間が存在する。チェ・ゲバラもそうだった。ゲバラはこのようにも言っている。
『先のこと? 正直言って、自分の骨をどこに埋めることになるのかも分からない』
ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。
逆の言い方をすれば、「スリルに生き、スリルに死ぬ」ことを求める人は、チェ・ゲバラになれる。
ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。
チェ・ゲバラはほんとカッコイイ。漢の中の漢です。同じ生き方ができるかと言われれば「?」ですが、あこがれはありますね。あ、あとバイク野郎だったというのが親近感わきますねぇ。
私の人生はちっともエクストリームなもんではないですが、5年ごとくらいでそれまでやってきたことと違うことに手を出してきて、あげく、海外に来ている、という。人生設計としてはまったくの失敗でしょうし、ちっとも誉められませんが、それまでに蓄積・達成したアガリを利用して食っていくということをろくにしていない(それまでに貯めたお金で、という意味ではなく、培った経験、立場、評価という意味で)。一方、一定の年齢を過ぎると、新たなところで新たなことを薄氷を踏む思いでやって、(自己評価だけでなく一般的に言っても)けっこうすごいことをやっても、それをやれるのはあなたなら当然でしょ的に思われるようになる。
人生万般で、そんな生き方をすることで喪ったものはたくさんあります。ただ、「死んだ子の齢を数える」ことがほぼ人生で一度もない。賽は振られちゃったのだから、それに合わせてやっていくしかないよね、としか思っていない。
そういう点ではやっぱり典型的なT型人格なんでしょうね。私は政治的には革命を否とする立場(まぁ、場合によりけりでしょうが、あまりに急進的な社会変化はほとんどの場合、致命的なダメージをむしろ弱者に与えることが多いというのがその理由)で、チェ・ゲバラにはそれほど賛同も共感も覚えないんですが、「自分の骨をどこに埋めるのかもわからない」というのはよく分かる。ま、アジア(除: 中韓印)のどこか、運がよければ看取ってくれる人がいるかも、程度しか分からない。