「自由はただではない」という言葉の裏には何があるのか?

「自由はただではない」という言葉の裏には何があるのか?

ドナルド・トランプが大統領になって、アメリカの言動は荒々しさと暴力傾向を増している。しかし、アメリカはもともと「暴力的な国家」でもある。

アメリカ大陸に白人が上陸した時、この大陸はもちろん無人の大地ではなかった。そこにはネイティブ・インディアンたちが営々と長い文化と伝統を紡いで生きてきたのだ。

それを白人たちは苛烈な暴力で奪ってアメリカを「建国」した。暴力こそがアメリカの建国史なのだ。だから、アメリカは暴力で世界に君臨する傾向が今もある。

暴力と成功体験がリンクしている。

そのため、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。アメリカは特に建国史から暴力にまみれており、暴力的な色彩が際立っている。

もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとは今のアメリカは誰も思っていない。

そこで、アメリカが振る錦の御旗が「自由と正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて「悪を倒す」という名目で暴力を振るう。そして何を得るのか。「自由」である。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

歴史を見ていくと、アメリカの正体が浮かび上がる

アメリカが関与した歴史の一覧がある。(アメリカ合衆国が関与した戦争一覧

アメリカ独立戦争から始まって、チカマウガ戦争、北西インディアン戦争、シェイズの反乱、ウィスキー税反乱、擬似戦争、第一次バーバリ戦争、テカムセの戦争、テカムセの戦争、米英戦争、クリーク戦争、第二次バーバリ戦争……。

そして、第1次セミノール戦争、テキサスのインディアン戦争、アリカラ戦争、エーゲ海の海賊掃討作戦、ウィネベーゴ戦争、第一次スマトラ遠征、ブラック・ホーク戦争、第2次セミノール戦争、第二次スマトラ遠征、米墨戦争、カイユース戦争、アパッチ戦争……と挙げても挙げても挙げきれない戦争が続く。

さらに第一次世界大戦以後も、ロシア内戦、Posey戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、レバノン危機、ピッグス湾事件、シンバの反乱、ドミニカ内戦、ベトナム戦争、第二次シャバ紛争、レバノン多国籍軍、グレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻、湾岸戦争、ソマリア内戦、ハイチ介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争、リビア内戦……と続いていく。

ここで挙げた戦争・紛争・内乱の介入は、一瞬で勝負がついたものもあれば、何年もかかって泥沼の戦争を繰り広げたものもある。

アメリカが建国されたのは1776年だが、それから今日までの242年で、アメリカは90%以上もの年月を戦争しながら過ごしてきた。

このように歴史を見ていくと、アメリカという国の「正体」が鮮明に浮かび上がってくるはずだ。アメリカがもともと「暴力的な国家」であるというのは、そういう意味だ。

しかし、この暴力性をアメリカ人は正当化できている。これらの戦争はすべて「正義と自由のために必要だった」というものである。

「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ。だから、暴力で悪い指導者を倒すアメリカは正義の味方なのだ」

これが戦争に邁進するアメリカ人の論理だ。

リビアに君臨していたカダフィ大佐。「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ」という論理で、葬り去られた。
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「自由はただではない。これまでも、これからも」

「自由は尊い。しかし、自由はただではない。それは血と暴力で勝ち取らなければならない」とアメリカ人は考える。尊い自由は、暴力で勝ち取らなければならないのだ。

アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。

米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」と米軍が言うと、「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」とCIAは説く。

アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。

ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。

ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。

これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を輩出して、アメリカの国防を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。

雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。暴力の正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。

フロリダ州出身のアメリカのカントリー歌手ジョン・D・アンダーソンは、このように歌う。

俺は祖国アメリカに誇りを持っている。自由の大地と勇者の家だ。それは完璧じゃないさ。だけど俺はいつもそれを取る。しかし、いつまでホーク(軍用ヘリ)は飛ぶんだ。それに、どれだけの母が泣くのか。たくさんの息子や娘が死んでしまった。それが、俺たちの辿ってきた道だった。自由はただではない。これまでも、そしてこれからも。しかし、それは払い続ける価値がある。自由はただではない。そのようにあんたや俺に伝えられてきた。ずっとそうなんだ。自由はただではない。自由はただではない。

「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていく

アメリカは自分たちの暴力を「正義と自由のためである」と正当化する。そして、国民に「相手を倒すのが正義と自由のためである」というコンセンサスが立った時、容赦ない軍事作戦に踏み出していく。

ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。

湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」された。

カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。カダフィが死んだ時、時の国務長官だったヒラリー・クリントンは、満面の笑顔を浮かべて喜んでこのように言った。

「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」

このヒラリー・クリントンの満面の笑みは、実はアメリカ人の多くが共有したものであった。

どういうことか。それは「カダフィ大佐という国民に暴政を振るう独裁者が殺されることによって、リビア国民は自由になった」という暗黙知がアメリカ人にあったのだ。

カダフィ大佐の死は、アメリカ式の「正義と自由が達成された」ことの象徴であり、だからカダフィ大佐の死にヒラリー・クリントンは満面の笑みを浮かべた。

自由はただではない。自由を手に入れるには戦って勝ち取らなければならず、そのためには多くの血が流れる。しかし、その血と暴力は「払う価値がある」とアメリカ人は考えている。

「自由はただではない。これまでも、そしてこれからも」とジョン・D・アンダーソンはメッセージを歌っている。自由は「これからも」ただではないと言っているのだ。

つまり、アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしているということだ。

こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。アメリカの歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがない。どういうことなのか。端的に言えばこうだ。

「アメリカは、再び戦争をする」

(written by 鈴木傾城)

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アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしている。こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。

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