数日間の出先から戻りました。今後は、やっと普通通りの更新ができると思います。寒い日々が続いておりましたが、幸いにして風邪をひくこともなく、無事に過ごしています。
外に出ている間は個人的な時間が取れないので長い文章は打てないと思ったのですが、真夜中になっても起きているという生活パターンが戻らず、お陰でいつもと同じような分量で文章を書くことができました。
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カンボジア黙示録 アンコールの国の夜と霧
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この数日は、空き時間はずっと昔の本を手にとっては読むような時間の過ごし方をしていたのですが、久しぶりに井川一久編著の『新版 カンボジア黙示録 アンコールの国の夜と霧』という書籍を読んでいました。
これは1974年から1979年までのカンボジアで起きたポルポト政権の大虐殺を扱った大著です。
これを読みながら、自然と現在シリアからイラクで起きているイスラム国(IS)による大虐殺を重ねてしまいました。
民族大虐殺は、今この瞬間も起きているわけで、人間は何ひとつ変わっていないということを感じました。そう思いながら表紙を見ると、そこにはこのような一節が書かれていました。
人間はきわめて可塑的な存在であって
天使にもなるし悪魔にもなる
状況次第では
私自身も平気で人が殺せるような悪魔性を発揮するでしょう
ゾンビーじみた表情の人間はこの東京にもわんさといますね
たくさんの人間が日本でも不条理な死を強いられている
精神的な殺害も日常的です。
そういう意味で 私は あのカンボジアの大虐殺を
他人事のように見てはいけないと思うのです
カンボジアの大虐殺は この現代社会で
いつでも どこでも起こりうる大虐殺
すでに進行しているかもしれない大虐殺のしるしなのです
そういう目で見るとき カンボジアの悲劇は
初めて人間一般の問題として身近に迫って来る
人間性のうちにひそむ悪魔の因子が解き放たれる
「カンボジアの大虐殺は、この現代社会で、いつでもどこでも起こりうる大虐殺。すでに進行しているかもしれない大虐殺のしるし」とは、不吉で洞察に富んだ警句です。
この書籍は、ポルポト時代を知るためには必要不可欠な書籍なのですが、すでに絶版になっています。
発売日は1981年4月ですが、私がこの本を読んだのは1988年頃で、あの頃にこの本を読んだときの大きな衝撃は今でも覚えています。
当時、私が知っていたのはベトナム戦争の惨禍であり、カンボジアはどちらかと言えばベトナム戦争の余波みたいなものとして捉えていたのですが、悲劇の度合いと地獄の深さでは、実はカンボジアの方がはるかに上回っていたのです。
その後、私は1990年代後半になってからカンボジアの大地を実際に踏みしめることになります。
この時、カンボジアの売春地帯に沈没したときの多くの売春女性たちとの出会いと別れは、『ブラックアジア・カンボジア編 売春地帯をさまよい歩いた日々』にまとめています。
それとは別に、私が惹かれていったのは常にポルポト政権の傷痕でした。(カンボジアの虐殺の洞窟(キリングケイブ)を訪ねたときの話)
トゥールスレン刑務所、キリング・フィールド、キリング・ケイブ……。1990年代後半でも、まだポルポト政権の暗い影は色濃く残っていました。
その時は気付きませんでしたが、もしかしたらカンボジアの大地に私を導いてくれたのは、もしかしたら『新版 カンボジア黙示録 アンコールの国の夜と霧』だったのかもしれません。
この「黙示録」は1981年2月の日付でこのような黙示(アポカリプス)を残しています。
人間性のうちにひそむ悪魔の因子が、不幸な歴史的、文化的、社会的、政治的、経済的等々の条件の集積によって大きく育つとき、カンボジア以外の国々が同じような悲劇に見舞われないとは決していえないのである。
現在は、「人間性のうちにひそむ悪魔の因子が大きく育っている」と言えそうです。またもや、人類はポルポト大虐殺と同じような悲劇を生み出すのは時間の問題であると言えます。
鈴木 傾城
心理学の実験で、囚人組と看守組に分けると、最初は命令されても囚人に対して罰を与えるのを遠慮気味にしていたものが、次第に激しさを増していくというものがありました。
タイトルは忘れましたが、このテーマで映画にもなっています。
>>天使にもなるし悪魔にもなる
100%天使の人もいないし、悪魔の人もいない訳で、言い換えれば誰しも多少の悪魔の心の部分を持っている訳です。
法律や良心や正しい教育で封じ込めなければならないのですが、一定の条件で悪魔になるのが恐ろしいことですが、事実です。
五木寛之は満州から戦後引き上げる時地獄を見ていますが。彼は「地獄は他の場所にあるのではなく、この今の世の中にある」と言っていますが同感です。
満蒙開拓団が終戦後避難して道路を集団で歩いている時、ソ連の戦車が日本人達を何百人も後からひき殺したとか、強姦する為女狩りをしつようにしたとか、看護婦を寄越せといって実際は輪姦目的だったとかですね。
彼らが刑務所から戦場に送られたゴロツキだった店を割り引いても許される行為ではありませんが、これが現実です。
戦争に負けたり侵略されたら、日本人はこのような目にあうのですから、自衛隊をまともな普通の軍隊に換えなければなりません。
日本に集団自衛権を持たせて、虎視眈々と我が国の領土を狙っている中国や、日本を敵国と見ている韓国に侵略されないようにすべきです。
ACE
V.E.フランクルの邦題「夜と霧」は霜山訳で読みましたが、この「カンボジア黙示録 副題アンコールの国の夜と霧」は未読です。信じてもらえないかもしれませんが、1980年代(学生でした)、確かに書店でこの本を見た覚えがあります。夜と霧、でフランクルの印象が強くて、ああ…これはカンボジアの、収容所の…と思ったまではいいが、買って読まなかった。覚えている以上、気にはなってたんです。今の今まで忘れてたけど。だけど。あああ一生の不覚!絶版ですか。エエイちょっくら神保町に…行くまでもなく今はアマゾンで検索!の手も(笑)。
飛ぶように、までは行かなくともかなり相当売れる、でなければ名著といえどもいともあっさりと絶版になります。しかし、今の世の中、この世界、ぜひとも復刻すべき本のひとつであろうと思われます。読んでないけど…ああ不覚。
白状しましょう、当時(1880年代)私は自分アジア人でありながら、アジアのことにあまり関心を持っていなかった。ポルポトやクメールルージュやそういう名称(?)、ニュースの上っ面だけは伝え聞いていたけれども、そう、「他人事のように」だった。地理的にも時的にも直近のことだというのに。若かったからというのは言い訳になりません。私は愚かものです。
ブラックアジアに出会い、ご記事を読み、初めて知ったことや自分なりにですが考えたことがたくさんあります。
そして私は、物事を、世の中を見る目というものををほんの少しでも前より持つようになれたかも…と思うのは傲慢でしょうか。
「そういう目で見るとき、カンボジアの悲劇は初めて人間一般の問題として身近に迫ってくる」…そういう目を。
私の目の有様がどうあれ、表紙の文は名文と思います。涙がにじみます。aurore
関心を持ったのでアマゾンで見てみたら、3万円近い値段になっていました!こんなに高いとは。。。(汗