沖縄にコザ吉原というところがある。戦後、沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれたのだが、沖縄市(当時はコザ市)は嘉手納基地の存在により、アメリカ軍兵士・関係者が多く集まる場所となり、急速に発展し、多様な商業施設や娯楽施設が立ち並ぶようになった。その娯楽施設のひとつとして、コザ吉原がある。
沖縄の歓楽街は今でも那覇の辻だったのだが、当時は沖縄戦によって沖縄全域が甚大な被害を受けて、この時期の辻もまた壊滅状態になっていた。この戦後の混乱期の中で、辻にいた人々はコザに移り住むようになった。
その中に、辻の歓楽街を支えていた多くの女性たちもコザに流れ着き、それがコザ吉原のはじまりとなった。吉原はもちろん東京にある一大遊郭「吉原」からきている。吉原のように繁栄するように、という願いをこめてつけられた名前でもあった。
コザ吉原は、正確には「コザ吉原社交街」と呼び、地元の人は今も社交街と呼んでいる。戦後まもなくから、この何もなかったコザはアメリカ兵相手に、一気に飲食店・ジャズ喫茶・バー・キャバレー・映画館などの商店が建ち並ぶようになっていった。
コザ吉原もまた、そうした中でアメリカ兵相手に女性たちがセックスワークで金を稼ぐようになっていたのだった。最盛期には100軒以上が置屋《Brothel》として機能し、周辺の島からも女性たちが稼ぐために続々とやってきた。
コザ吉原から見ると南側の銀天街はかつては黒人街で、そちらのほうにも置屋(Brothel)があったほどだ。1970年初頭の段階でわかっているだけで23件ほどの置屋があったというのだから、こちらもコザ吉原に負けず立派な背徳区(Red-light District)でもあった。
ただ、このあたり一帯ではアメリカ兵がカネで現地の女たちを買い漁る姿や、しばしば起こる暴力事件などの反感を考慮して、アメリカ軍は自国兵士たちに街には出ないように通達を出すようになった。
コザ吉原はそれから顧客を日本人相手に切り替えて、「ちょんの間」を営業するようになったのだが、そのちょんの間もまた地元住民の反発や「違法風俗反対」の世論の声に押されて何度も摘発があって、壊滅していった。
ただ、壊滅させたら沖縄市で性犯罪が増えたというので、またこっそりと影響が再開されたのを黙認されているような状態で今に至っている。2000年代の初頭から、関東では町田のちょんの間も、横浜・黄金町のちょんの間も、みんな壊滅させられ、最近では尼崎のかんなみ新地も壊滅した。
セックスワークは消えることはないが、ちょんの間という原始的な「背徳区《Red-light District》は日本では生き残れないのかもしれない。そういうことを思いながら、かつて東南アジアの背徳区をさまよい歩いていた私は感慨深く、このほぼ廃墟と化している「コザ吉原」を訪れてみた。