タイ国民はもう王室にもプラユット政権にも飽き飽きしている。「もういい加減にしてくれ。王室もプラユットもうんざりだ」と若者たちは叫ぶ。だから、今回の総選挙で明確に変化を求めたと言える。しかし、若者たちの「状況を変えたい」という思いは成就しない可能性が高い。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
タイ人は王室に尊崇の念を持てなくなってしまった?
2023年5月14日、タイで総選挙(下院総選挙)があったのだが、ここで革新系と言われている「前進党」が勝利して第一党となった。党首はピタ・リムジャロエンという42歳の若き指導者である。
タイのタマサート大学を首席で卒業、テキサス大学で学ぶための奨学金を得て、その後にはハーバード大学の奨学金を受け取ってそこで学び、マサチューセッツ工科大学でMBA(経営学修士)を取るというタイでも有数の頭脳を持つ人物であった。
その後、タイではグラブ・タイランドの経営に関わってから政治の世界に入っている。彼が最初に所属していたのは「未来前進党」なのだが、この党は「王室改革」を叫んで大きな支持を得たので、それに危機を感じたプラユット首相に潰された。
実は、タイ「王国」は、長らく国民に親しまれていたプミポン国王(ラーマ9世)が2016年に88歳で崩御してから、ガタガタになっていた。次期国王(現国王)となったワチラロンコン国王が、派手な女性関係や奇異な言動によってまったく国民の信頼がなかったのだ。
この奇異な「変人」ワチラロンコンについては、こちらでも書いた。とにかく、ワチラロンコン「国王」は品格が欠如していて、タイ人も尊崇の念がまったく持てなくなってしまったのだった。(タイのプミポン国王が崩御して王室の権威は崩壊するのか?)
そのため、このワチラロンコン国王に無用な力を持たせないために「王室改革案」が国民の間で広がっていった。王室の財産、すなわちタイの財産をワチラロンコン国王の私利私欲で使わせないことや、王室の予算の透明性の確保や向上、そして王室の権限の制限などが主になっていた。
前プミポン国王は大きな権力を持ちながらも思慮深く振る舞ったが、ワチラロンコン国王は何も考えないで自らの欲望のまま動く。多くのタイ人にとっては、この状態がとても危険な社会風土であると感じるようになったのである。
その先鋒に立ったのが未来前進党であり、ピタ・リムジャロエンであった。
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タイ国民はもう王室にもプラユット政権にも飽き飽き
日本ではあまり報道されなかったが、2020年からタイ王室に対する不満が若者中心に広がっていき、それが連日の抗議デモや暴動になっていった。
バンコクの高速道路などでは、ところどころにプミポン国王の巨大な肖像画を見ることがあるが、国王が変わったのでこれがワチラロンコン国王のものに変えられると、いつの間にかボロボロに破かれたり、汚されたりして撤去された。
タイは王室批判の言動は死刑なのだが、それでも「ワチラロンコン国王はタイの恥だ」と嘆き、こんな人間は尊崇できないと肖像画すらも拒絶されるほどワチラロンコン国王は嫌われていたのである。
現在のプラユット政権は2014年にインラック政権をクーデターで打倒してからずっと政権を保持したまま「独裁」を続けているのだが、このプラユット政権は親王室派であり、自らの政権を保持するためにも王室を利用し、王室もまた自らの存在意義を揺るがさないために親王室派のプラユット政権を利用した。
つまり、プラユット政権と王室は「持ちつ持たれつ」の関係であり、だからこそ10年近くも政権の座を保つことができているのだった。
しかし、すでに2020年に若者たちが中心になって「王室改革」を公然と叫ぶようになり、「今の国王じゃ嫌だ」という国民感情をプラユット政権も押さえることができなくなってしまったのだった。
そのため、2023年5月の総選挙はプラユット政権にとっては非常に不利な結果になるのではないかと言われていたのだが、その予測は完全に当たった。プラユット政権の中核であった「国民国家の力党」「タイ団結国家建設党」は敗北し、ピタ・リムジャロエン党首率いる「前進党」が第一党になったのだった。
ちなみに、次点は「タイ貢献党」なのだが、この党は王室改革よりも「アンチ・プラユット、アンチ軍部」の性格が強い党である。そして、この「タイ貢献党」が、新たな混乱をタイに巻き起こす可能性がある。
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「状況を変えたい」という思いは成就しない可能性が高い?
「タイ貢献党」は、2006年に軍部によって追放された、あのタクシン・シナワットが作った政党であり、長らく軍部や王室とぶつかったタクシン一派の牙城であると言ってもいい。
タクシン・シナワットは軍部のクーデターによって国外追放されて今も世界を流浪しているのだが、「タイ貢献党」が第二党になったことによって、タクシンは「タイに戻る」と声明を発表している。
ところが、タクシンがタイに戻って来られるのかどうかは、国王がタクシンに恩赦を与えるかどうかにかかっている。タクシン前首相は、何が何でもワチラロンコン国王に恩赦をもらわないといけないのだ。
とすれば「タイ貢献党」が第一党となった「前進党」と一緒になって王室改革なんか主張していたら、恩赦がもらえないことになる。
タクシンにとっては、「とにかくタイに戻りたい」というのが何よりも突出した感情なのだから、王室改革を前進党と一緒に叫ぶとは思えない。とりあえず、タクシンが恩赦をもらえるまでは王室改革については「棚上げ」「先送り」をするだろう。
そういう事情がわかると、なぜ王室改革案を叫ぶ前進党が第一党になっても、王室改革が進まないのか分かるはずだ。上院のほとんどはプラユット派、タイ貢献党も声高に王室改革を叫べない。前進党は、状況を変えるだけの「数」がない。
そんなわけで、ピタ・リムジャロエン党首がいくら「我々は妥協しなかったし、これからもしない」と叫んでも、王室改革は遅々として進まないと予測できる。
タイ国民はもう王室にもプラユット政権にも飽き飽きしているということでもある。「もういい加減にしてくれ。王室もプラユットもうんざりだ」と若者たちは叫ぶ。だから、今回の総選挙で明確に「変化を求めた」と言える。
しかし、若者たちの「状況を変えたい」という思いは成就しない可能性が高い。
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再びタイの政治が激動しており、面白いことになってきた
今回の総選挙は「下院」の選挙である。上院はプラユット政権が任命した議員たちで議席が占められている。
数で言うと、下院は500人、上院は250人である。今後、新たな首相を決める必要があるのだが、首相になるには上院・下院を合わせた750人の半数以上だから、376人以上の支持が必要となる。
今回の総選挙でピタ党首の前進党は152議席を取った。
首相になるためには、あと224人を集めなければならない。どこから持ってくるかというと、タイ貢献党の141議席からである。しかし、この2つを合わせても293議席であり、やはり376人に満たない。
他にいくつかの野党政党の議席をあれこれ集めても310議席であり、66議席足りない。そういうこともあって、首相になれるかどうかは上院の切り崩しが必要であり、そこにピタ党首の命運とタイの国家運営の行方がかかっていると言える。
仮にピタ党首に勢いがあって、首相がピタ・リムジャロエンに決まったとしたらタイは劇的に変わっていくのだろうか。
いや、以後のタイの政治は「上院と下院の意見の相違」と「連立政権内での意見の相違」で紛糾して、重要なことは何も決まらない政治になってしまうだろう。
もう一つ、タイ国内で囁かれているのは、ピタ・リムジャロエンが首相になったら、ほどなくして再びクーデターが起きてプラユット政権ないしは新・軍事政権が戻ってくるのではないか、というものである。
予期せぬ事態が起こらない限り、今年の夏頃には誰がタイの首相になっているのか決まっているはずだ。しばらく私はタイの政治をウォッチしていなかったが、再びタイの政治が激動しており、面白いことになってきたと思って見ている。
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