排除は良くない? まさか。有害な存在を排除できなければ組織は存続できない

排除は良くない? まさか。有害な存在を排除できなければ組織は存続できない

「有害な存在を排除する」という考え方は基本的には正しい。有害な存在を1人でも入れてしまうと、その1人が集団の目的や方向性をブレさせて内部が動揺したり、亀裂が走ったり、本当は必要な人が欠けたりする。その有害な1人が仲間を引き入れたりすると、「集まり」はどんどん汚染され、腐敗していく。方向性の合わない人間は、ある種の集まりにとっては有害なのである。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

服装規定(ドレスコード)

シンガポールを象徴する最も有名なホテルと言えば、「ラッフルズホテル」や「マリーナベイ・サンズ・ホテル」を上げる人は多いが、どちらも薄汚れたTシャツにジーンズの野良犬のような貧困バックパッカーは外見から拒絶される。

ロビーあたりでは大目に見られても、格式あるホテル内の高級レストランに入ろうとすると、きっぱりと拒絶されることになる。「あなたの服装が合わない」とはっきりと言われる。

世の中には「服装規定(ドレスコード)」というものがある。

格式あるホテルやレストランでは、だらしない普段着で入ろうと思っても入口で追い払われるのだ。「カネはある。Tシャツにジーンズが自分のスタイルだ」と声高に主張しても無駄だ。そういう決まりになっている。

シンガポールにはいくつかのヒンドゥー寺院もあって、見学のために中に入ることもできるのだが、ここでもドレスコードがあってだらしない格好では入れないし、女性も露出が多い服装ではNGになる。

ドレスコードというのは、その場その場で「相応しくない人間」を毅然と排除するためのシステムである。合わない人間を排除する。「その場に相応しい格好をしてくれ」という強制だ。

私はシンガポールには何度も足を運んでいるのだが、一度も5つ星の高級ホテルには泊まったことはない。ドレスコードに反発しているわけではなく、最初から泊まる気持ちがない。

そんなところに真夜中の女を連れ込んでも拒絶されるし、私自身が高級ホテルに泊まって喜ぶような性格ではない。真夜中にウロウロするような得体の知れない男は、ゲイランの場末のナンバーホテルで十分だ。

ゲイランは私のような男を歓迎するが、高級ホテルは私のような男を拒絶する。仮に私が浮浪者同然の格好で5つ星ホテルに入ろうとして入口で蹴り出されたら、それは差別だろうか?

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「合わない人間を排除する」ということ

ドレスコードというのは、要するに外観で人を判断して、入れる人と入れない人を区別するためのシステムだ。その根底には「合わない人間を排除する」という排除の思想がある。

世の中は何でもかんでも自由がいいと思っている人間にとって、「合わない人間を排除する」するというのは「とんでもないこと」のように思うかも知れないが、実際にそうなのだろうか。

「合わない人間を排除する」というのは、別に狭量なことでも差別でも何でもない。なぜなら、すべての「集まり」は実は「合わない人間を排除する」ことで成り立っているからである。

サークル、グループ、団体、組合、組織、企業、企業団体、連合等々、すべての「集まり」は何らかの目的や理念を同一にすることで成り立っている。

趣味のサークルでも、たとえば野球をすることが目的のサークルであれば、野球をするために集まる。サッカーをしたい人がそこに入って「野球ではなくてサッカーをしよう」と言っても仕方がない。

野球をするのが目的のサークルでは、それ以外のものをしたい人は「排除される」のである。

合わない人間は、そもそも最初から入れないのだが、勝手に入ってきて「違うことをしたい」と言い出したら排除するしかない。目的がまったく違うのだから当然だ。

野球サークルに入ってサッカーをしたいとわめく人間は、厳かに排除されていくのである。その逆も然りだ。サッカーのサークルに野球をしたいと主張する人間が入れば、出ていってもらうしかない。

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「マリーナベイ・サンズ・ホテル」。観光客にとても人気の高級ホテルだ。普通の部屋であれば1泊5万円から6万円あたりで泊まれるので、奮発してこのホテルに泊まる日本人観光客も多い。このホテル内の高級レストランには、もちろんドレスコードがある。

「有害な存在を排除する」という考え方

すべての「集まり」は、目的があり理念がある。

その目的や理念に合わないのであれば入るべきではないし、入って違うことを言うのであれば排除されても文句を言うべきではない。それは「差別」ではないし「狭量」でもない。

方向性が違う異分子が入ってきても、それを放置していたら「集まり」は成り立たない。それが原因で「集まり」は瓦解する。だから、有害な存在をそこから排除するというのは必要不可欠な権利であり、それは正当なものである。

「有害な存在を排除する」という考え方は基本的には正しい。有害な存在を1人でも入れてしまうと、その1人が集団の目的や方向性をブレさせて内部が動揺したり、亀裂が走ったり、本当は必要な人が欠けたりする。

その有害な1人が仲間を引き入れたりすると、「集まり」はどんどん汚染され、腐敗していく。方向性の合わない人間は、ある種の集まりにとっては有害なのである。

道徳が求められる「集まり」に反社会的な人間が入ったらどうするのか。それは、排除されなければならない。そうしないと、その反社会性が「集まり」の体質だと思われ、全体が不利益をこうむるからだ。

利益を求める会社組織にまったく何のやる気もない人間が入ったらどうするのか。やはりそれは「排除」されなければならない。そうしないと、会社全体が怠惰にルーズになってしまうからだ。

もちろん、どんな「集まり」にも多様性が必要である。しかし、多様性と「集まり」の目的や理念のどちらが優先されなければならないのかというと、言うまでもなく目的や理念の方だ。

目的や理念が一致する多様な人がいるのが健全なのであって、多様だが目的も理念も一致しない「集まり」は、ただの烏合の衆であって健全ではない。目的や理念が違うのであれば、同じ「集まり」である必要性がない。

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社会は有害組織を排除する努力をする

世界に君臨するアメリカのハイテク企業であるグーグルの社内で「女性はプログラムに向いていない」と意見を出した男性が即剤に解雇されるという事件があった。グーグルは「多様性」を誇りにしていた企業である。しかし、男性は解雇されて復職は認められなかった。

「多様性が大事だと言いながら、特定の意見を持った人間は排除するのか?」と解雇された男性は叫んだが、会社方針と合わない思想や意見や主張をする人間は、最終的に会社を損壊させるので「排除」せざるを得なかった。

自社に合わない意見を持つ社員を「排除」しないとまとまりがつかない。だから、組織は生き残るために有害な存在を排除し、それによって組織を存続させる。

それは組織の自衛であると共に権利である。

「排除」が機能しなくなったら、内部は無法地帯になってしまう。無法地帯になったら、組織としての機能は著しく低下し、分離し、人々が離れ、全体が崩壊していくことになる。

社会自身も、自らに有害と思う存在は「排除」する。

たとえば、反社会的組織は社会には有害である。法律を守らない組織は明らかに有害なのだから、社会はこうした組織を排除する。社会を成り立たせるために、社会は有害組織を排除する努力をするしかない。

もし社会が排除に失敗すると社会は崩壊する。

メキシコなどは、まさにドラッグ・カルテルの無法を排除できなくて社会が損壊した。「有害な存在を排除できること」がきちんと機能していなければ、そんな社会は機能不全に陥るのは確実であるということになる。

人間自身も、自分の身体の中に有害な物質が入ってきたら、それを排除しようと免疫システムが働く。「排除するのは差別だ、何でも受け入れる」と言って有害な物質を取り込むがままにしていたら最後は死ぬしかない。

有害な物質は排除しなければならないのである。そうしないと全体が死ぬのだ。

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「お前はあっちの世界で生きていけ」

「有害な存在を排除できること」がきちんと機能しないと全体がダメージを負う。

「排除する」というのは、とても重要だ。だから、何らかの「集まり」を運営する人間は、嫌われようが叩かれようが恨まれようが責められようが、「組織に有害だ」と思う人間をきちんと排除できなければならない。

組織の上に立つ人間に必要なのは、「有害なものを毅然と排除できる」という能力を持つことであるとも言える。多様性を保持しながら、明らかに組織を瓦解させるほど有害な者は排除する。

協調や友好や寛容は重要であることは誰でも分かっているのだが、現実を見るとそれにも限度があるということだ。

「自由だ、博愛だ、平等だ、誰とでも仲良くしろ」と叫んでいるリベラルですらも、「リベラルではない人間」に遭遇すると気が狂ったように攻撃するし排除する。

「誰でも受け入れよ」と言う人間が、自分と違う意見を持った人間は絶対に受け入れない。「誰とでも仲良くしろ」と言う人間が、自分と違う意見を持った人間と仲良くできない。

世の中はそんなものだ。

「寛容である」というのは方向性としては正しいのだが、何事にも「限度」があるということだ。きれいごとを言って世の中がうまく行くのであれば、いくらでもきれいごとを言えばいいが、物事の本質はきれいごとでは成り立たない。

社会は必ず、自らの存在を破壊する人間を「排除」しようとするし、それは社会学的にも生物学的にも自然な摂理でもある。「集まり」を破壊する存在は、排除できなければ自らが存続できない。

仮に私が浮浪者同然の格好で5つ星ホテルに入ろうとして入口で蹴り出されたとしても、それは差別でも何でもない。道徳を訴える人間が売春地帯に立って説教を始めて放り出されたとしても、やはりそれは差別でも何でもない。

互いに世界が違うのだから、「お前はあっちの世界で生きていけ。こっちに来るな」というだけの話だ。

『対立の世紀 グローバリズムの破綻(イアン・ブレマー)』。エリート層への怒り。ポピュリズム政党の台頭。仕事を奪うテクノロジーへの不安…数々の「対立」を、世界は克服できるのか。第一人者が未来を読み解く。

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