「責任感が強い」というのは褒め言葉でもあり、社会的に求められる資質でもある。何か仕事を頼むときは、ぜひとも「責任感が強い」人に頼みたい。
日本人は全般的に見ると、責任感が強い人が多いので、何かを頼んで不安になることはない。すべてのサービスで「この日」と約束したら、ほぼ100%に近い確率でその約束は履行される。
列車の運行にしても、配達にしても、依頼した製品の納期にしても、期日ぴったりに遂行されて、完成度もまた望む通りである。約束の時間を守るためにサービスがおざなりになるという本末転倒もない。
普通の日本人にしてみれば、そんなことは当たり前だと思うかもしれない。しかし、そうでない国も多い。途上国から戻るとそれは異常なまでに徹底していて恐ろしくなるほどだ。
カンボジアでもインドでもインドネシアでも、ちょっとしたことを頼んでできていないことは多い。
ホテルでクリーニングを頼んで翌日にチェックアウトなのに約束の朝の時間に間に合わなかったとか、翌日仕入れてくれるはずの商品が仕入れられていなかったとか、買った商品が最初から不良品だったとか、そんなことは当たり前に起きる。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。
理不尽なことが起きるのが海外だ
インドでは、コルカタのボウバザールでタクシーに乗ってサダル・ストリートのホテルに行くように頼んだら、数十分ほど迷った挙げ句に「分からないから降りろ」と言われ、「待て、カネは払え」と要求されたことがあった。
行き先に着けないのであればカネは払えない。当然だ。私が抗議して「払わない」と言うと口論になり、道ばたで他のインド人を巻き込む騒動になったが、結局私は半額だけ払うことになった。理不尽だとは思ったが、そうしないと埒が明かなかった。
ちなみに、インドの売春地帯では常にカネに揉める。そういう場所だ。
時間も日本ほどスムーズにいかない。バングラデシュは首都ダッカから郊外に行こうと思ったら、あちこちで川に阻まれる。橋がある場所もあるにはあるが、渡し船で向こう岸に渡らなければならないこともある。
ある時、ダッカから西に向かっていた時のことだが、やはり大きな川の向こうに行く必要があって渡し船を待ったのだが、港でその船が何時に来るのかと訊ねたら「すぐ来る」と言われたことがあった。
あまり細かい時間を聞いても始まらないので、「すぐというのだから5分か10分くらいだろう」と私は予想して現地の人たちと待った。
しかし、10分経っても15分経っても渡し船がやって来ない。「まだなのか?」と訊ねると「心配するな。もう来る」と言うのだが、やはり来ない。結局、その渡し船がやってきたのは1時間後だった。
「すぐ」というのは日本人にとっては2分や3分後を想定する。「もう来る」と言われたら、それこそ1分後には来るような気になる。
遅れるなら遅れても構わない。バスや船のような乗り物は不確実要素が高くてそんな厳密に時間を守れないのは分かっている。しかし、1時間も待たされるのは「すぐ」ではない。
恐らく現地の人もそれを「すぐ」とは思っていないのだろうが、許容範囲なのだろう。誰もが黙って1時間待っていた。そう言えば、インド航空もまたよく遅れる。空港で1時間待たされたり、機内で1時間待たされたりしたこともあった。
もちろん時間通り運行することもある。しかし、しばしばそうでないことがある。インド航空は嫌いではないが、時間や機内のメンテナンスは期待できない。
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あまりにも厳しすぎて息が詰まる?
日本では、何かを頼んでできなかった言い訳を10分も聞かされることもない。もし不可抗力で約束を履行できなかったら、こちらが恐縮してしまうほど謝ってくれる。遂行できない仕事に関してカネを払えと言われることもない。
日本は何かにつけてしっかりしている。
そんな日本人の民族性が技術大国の基礎となっており、先進国の一員になった大きな要因であるというのは誰でも分かる。
とことん責任を重視し、妥協せず、のめり込み、そして極限まで磨き抜いて良い物を生み出そうとする。それは強い責任感がなくては生み出せない気質だ。日本人を日本人たらしめているものがここにある。
これは凄まじくも素晴らしい国民性だ。しかし、逆に言えば、日本で暮らすのであれば自分もまた責任感が強い人間にならなければ、日本では生きていけないということになる。
まわりが全員責任感が強いのに、自分だけいい加減なことをしていれば、日本人は誰も相手にしてくれなくなる。性格はともかく、仕事に関しては日本人は妥協してくれないからだ。
そのため、外国人の中には「日本の社会があまりにも厳しすぎて息が詰まる」と本国に帰ってしまう人もいる。
律儀で責任感があるというのは、サービスを受ける側になると安心できるのだが、サービスを遂行する側になるとかなりの自己犠牲が必要になる。自分の時間や自分の都合を犠牲にしなければ成り立たないこともしばしば起きる。
外国人にとっては「適応できない」と思うこともあって当然だ。
では、「責任感が強い」ことを求められる社会で、日本人はみんなすんなりと適応できているのだろうか。もしかしたら、そうではないのかもしれない。
ほどほどの国に合っている日本人もいる
日本の責任感の強い社会に尊敬の念を持ちつつも、何となく息苦しくなって海外で暮らしたくなる日本人も少なからずいる。その息苦しさは、あまりにも強く責任感が求められたり、同調圧力にさらされたりする息苦しさであったかもしれない。
日本にいるときは気付いていなくても、途上国に行っていろんな意味で「ルーズであってもいい」という社会に接すると「そうか。ある程度はルーズであっても別にいいのか」と逆に安堵するのだ。
そこまで杓子定規に責任を負わなくてもいいと知って、何か肩の力が抜けていく。「日本ではこんないい加減さは認められないだろうな」と思いながら、それが心地良く感じる。
東南アジアの空気を吸って生活していると、最初は約束・納期・責任を第一に考えていた日本人でも変わってしまうことがある。仕事が終わって日本に戻れと言われて、「帰りたくない」と会社を辞めて東南アジアに居残る人たちもたくさんいる。
いい加減さ、ルーズさ、無責任さにしばしば被害を被るのだが、ふと気付いたら自分もガチガチに約束・納期・責任を負わなくてもいいことに気付く。それが故に、何となく「その方が自分に合っている」と考える人は珍しくない。
もう出世するとか、金儲けするとか、良い暮らしをするとか、そういった「社会が求めている社会人としての正しいあり方」に合わせるのも面倒になって、ルーズな国で適当に生きる方が楽しいと思ってしまう。
とは言っても、インドの貧困社会のように無責任のオンパレードであればそれはそれで疲れるし適応できない。しかし、ほどほどに責任感が求められ、ほどほどに力を抜いていい東南アジアのような国があると「どうも、こちらの方が過ごしやすい」と思う日本人はそれなりにいる。
ひとことで日本人と言ってもいろんな人がいる。日本人であっても、日本のガチガチの社会よりも、いろんなものがルーズな社会の方がいいと思う人がいて当然だ。そのような人が国外の空気を吸ってほっと息をつくのだろう。
ただ最近は、途上国でさえもインターネット時代になって、良い意味のルーズさが途上国からも消えつつあるという現象も起きている。しかし、民族性は依然として残るので、日本ほど時間にも納期にもサービスにも厳密に問われる社会にはならないと私は思っている。
ほどほどにやっている国は依然として、ほどほどにやっていくのだろう。それは決して悪いわけではない。(written by 鈴木傾城)
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バングラデシュ。日本にいるときは気付いていなくても、途上国に行っていろんな意味で「ルーズであってもいい」という社会に接すると「そうか。ある程度はルーズであっても別にいいのか」と逆に安堵するのだ。
先ずは沖縄をおすすめします。家賃は高いですがご飯は安いです。
次に台湾。観光地は高いですが生活費は安いです。
その後東南アジアでしょうか。
お尻を手で洗える、謎の昆虫類、謎の腹痛、闇夜の謎の気配が平気な人ならどこでも住めると思います。
ネタじゃなく本気で言ってます。闇夜には何かいる。
しかし気配と共存出来るならきっと気配の主も何もしてこない。
それくらいに地域に溶け込める人ならどこでも住めると思います。
まったく同意です。
現代日本は息苦しいです。
一度レールから外れると復帰困難であり、一度でも罪を犯すと敗者復活できない、他者に不寛容な国です。
私が東南アジアに行く理由のひとつに、心地よいゆるさがあります。
細かいことは気にしないテキトーな空気感に包まれるだけで癒されます。
しかし、50年以上前の日本もそうだったんじゃないかなとも思います。
昭和の東京五輪前あたりまでの日本も、ゆるくて過ごしやすい国だったんじゃないかと想像します。
但し、自分自身も海外赴任し、途上国に行った経験から同感です。
日本人が、もっと外国に行き(途上国を含め)
あの「気楽さ」を共有したら、もっと生きやすくなると思います。
インフラなんかそこそこでも、結構発展していますよ。インドネシアのように
クーデターが起きないように監視し合って同調を強制するのではないでしょうか?
デモに参加するので会社を休みますとか、大声をあげで主張したらいかがなものかと言われる。
あまりヘイトヘイトもどうかと思いますが文句があるなら主張すべきです。
snsでコッソリ叩いてないでボイコットやストライキも辞さないくらいの勢いが欲しいです。
が、しかし、不安定要素はさっさと芽を摘まれるのだろうなど感じます。
自分に被害が及ばなければ対岸の火事なんてどうでもいいですからね。
自分自身がルーズなので、時間通りに来る電車・バスには
本当に助かってます。
郵便物が迷子にならずに届くのも、日本の郵便のおかげじゃないかと思います。
ただ、サービスを提供する側になったら息苦しさはあるかな。
コンビニの外国人の店員さんは鼻歌歌ったり
「ポイント使いなよ」と言ってきたり、接客が新鮮です。
現代日本で感じる閉塞感は学校教育が大きな要因と思っています。
私は他人と一緒に決められた時間とルールに縛られて行動するのがものすごく苦手です。「ホイクエン」とかいうところに収容された時の違和感は今でも鮮明に覚えています。
でも当時の子供には「学校に行かない」という選択肢はなかったし、私の母親は「人並みの行動ができる」というのが絶対的な基準の人だったので、心を殺して毎日通学していました。
かなり心が歪みましたし、発狂に近い状態になったこともありました。私から見れば世間の基準の方が狂っているように見えるのですが・・
ただし、規定のルールに乗ってさえいればある程度の生活が保障されるのであれば、費用対効果の観点からはそれもあり、と言えるかもしれません。
しかし、もはやそんな状況ではなく、心を殺してまで学校に通う意味はないようにも思えます。学習するにあたって、「通学する」というのは一つの選択肢でしかない、程度の認識でいいんじゃないでしょうか。
日本社会の中枢におられる方々には通学が困難だった人はほぼいないでしょうし、日本の社会に違和感を感じている人間の気持ちはわからないでしょうから、日本人による社会風潮の改革はほぼ無理だろうと見ています。
外国からの流入者が感じる違和感によって突き崩していくしかないのか、でもそれは本来望ましい形ではないんだけど、、、と思っています。