まだ若かった頃、私は「美しい女性は無条件で幸せになれる」と無邪気に信じていた。美しい女性はいつもちやほやされるし、寄ってくる男の中からベストを選べるので、選択肢の多い分、幸せになる確率が高いと考えていた。
また美しい女性は大切にされる「はず」なので、ベストな男を選んだら、あとは黙っていても幸せが転がり込むとも思っていた。
もちろん、美しい女性でも私生活で何らかのトラブルは抱えているというのもあるかもしれない。「それでも美人はいろんな人から助けが入り、やっぱり最後は得するはずだ」という無意識みたいな確信が私にはあった。
それが10代の頃の私の偽らざる感覚だった。
そのせいか、20歳から東南アジアのセックスワークが吹きすさぶ荒廃した歓楽街に沈没し、そこで目が覚めるような美しい女性がセックス産業で消耗しているのを見ると、最初に何となく自分の認識と現実にギャップを感じたのを覚えている。
「彼女たちはキレイなのに、なんでどん底にいるのだろう。美しい女性は無条件で幸せになるのではなかったのか?」
「美しい=無条件の幸せ」という公式を無意識に信じていた私は、「薄幸の美女」の存在がどうしても解せなかった。私は自分を納得させるために「今は何らかの理由で堕ちていても、きっと誰かが彼女を救い出して最後にはやはり幸せになるのだろう」と思ったりした。
実際、先進国から来た金持ちの男たちが次から次へと彼女たちを身請けしていたので、彼女たちは玉の輿に乗って貧困から抜け出すこともあった。しかし……。