タイ編
タイ・バンコク。熱帯の夜の喧噪の街をゆっくりと歩いていると、真っ正面から黒いボディ・コンシャスに身を包んだ白人女性が近づいて来た。
売春ビジネスに関わる女独特の視線が絡みついてきた。それに応えると、女は流し目を投げて”How are you ?”(ご機嫌はいかが?)とていねいな口調で尋ねた。
肌はきれいなホワイト、彫りの深い顔立ち、ふんわりと仕上げた肩までのショートカットは黒髪。
まっすぐこちらを見つめるその瞳の色は透明度の高い灰色と言えばいいのか、茶色を限りなく灰色にした色と言えばいいのか、日本人には形容しにくい色をしている。
グレースホテル界隈
“I”m Fine.”(気分はいいよ)と伝え、さらに”Where are you come from?”(どこから来たの?)と尋ねてみた。女はむっちりとした胸を見せつけるような姿勢をしながら簡潔に答える。
“Moscow”(モスクワよ)
この女性こそがモスクワからやってきたロシア女性で、探していた女性のようだった。
“Bombom mai?”(セックスですか?)
白人女性がタイ語のスラングを使うことに軽い違和感を感じながらもうなずく。すると彼女は手を回してきて「あなたのホテルへ行きましょう」と言った。
肩を抱いて同意すると、彼女はにっこりと笑いかけてきた。
バンコクのスクンビット通りからソイ3を北上して行くとグレースホテルがある。このホテルは20年ほど前からアラブ人の集まる界隈として有名だ。
華やかな民族衣装を着たモスリムの人々が闊歩する姿を見ていると、ここはタイではなくアラブのどこかの街ではないかという錯覚に陥る。
街の看板にはアラビア語が踊り、マトンの肉を大きな塊のまま焼いて薄く削いでいる料理人の姿を見ることができる。
初めてこの界隈を歩いた15年前はまだ中華料理屋もあった。しかし、商魂たくましい中国人もモスリムにはさすがにお手上げだったようで、現在はどちらを見てもアラブ一色に染まっていた。
ナナ・ホテルと同じナナだね
ここはまさにタイの異邦の地である。
間違えてこの界隈に足を踏み入れた日本人は、違和感に圧倒されて退散するしかないような独特の雰囲気を醸し出している。
有名なグレースホテルのコーヒーショップには、アラブ人やインド人の好みである太った女性が多く集まる。
この界隈のオープンバーもまたそのような女性たちが媚びを売っている姿を見ることができる。価値観の違い・文化の違い・嗜好の違いは決定的で、この界隈は長い間、縁遠い地でしかなかった。
ところが、ここ2年ほどの間でソイ3界隈にロシアの白人売春女性がちらほらと姿を現すようになっていた。それで「縁遠い場所」とは言ってられなくなった。
白人に対して憧れや思い入れはないのだが、彼女たちの存在そのものが興味を引いた。熱帯の地まで来て売春するロシア女性とは、いったいどういう女性なのか知りたかった。
そして陽も落ちてネオンと喧噪が街を埋め始めた頃、ソイ3をゆっくり北上して難なくロシア女性と知り合ったというわけである。ホテルに向かう道すがら、彼女に名前を尋ねた。
「ナナ」と彼女は答える。
「ナナ・ホテルと同じナナだね」と笑うと、「わたしはホテルではないわ」とふくれた。
仲間内でからかわれているらしく、そうやって軽く怒るところに彼女の愛嬌を感じた。
実際、彼女は愛嬌があって大らかな性格をしていた。彫りの深い顔は性格のキツさを感じさせるのだが、それは勝手な思い込みのようで、素朴な優しさが彼女にはあった。
20歳前後なのかもしれない
宿泊していたホテルの部屋に入ると、ナナはベッドの端に座って屈託のない笑みを浮かべ、”Money”(マネー)と言った。
「終わってから払うよ」と言うと、「どうしても先に欲しい」と言った。
「お金は持ってるから心配ないよ」と財布を開いて見せて上げたが、それでも「先に欲しい」と聞かないので彼女の言う通りにした。
あとで知ったのだが、ロシアからやってきた女性たちのほとんどは、先に売春代をもらうようにしているようだ。
彼女たちは主にアラブ人を客にしているのだが、アラブ人は終わったあと、何かと長い交渉を始めて金を払わないので自然と先にもらうようになったようだ。
抱きしめようとすると、彼女は子供をいさめるような口調で「ノー」と言いながら、部屋の電気を消そうとした。
「ライトは点けたままがいい」
そう言うと、彼女は笑いながら「ダメ」と言った。
しかし「白い肌を見ていたいからライトは必要だ」と主張すると、彼女は何か納得したようにうなずき、ライトは点けたままでもいいことになった。
シャワーを浴び、バスタオルを巻いてベッドに入ってきたナナを裸にすると、横になっても形の崩れない美しい乳房が目の前に現れた。
服を着ているときは豊胸だと思ったのだが、実際は大きくなかったのは服で誤魔化していたのだろう。
真っ白な肌に青い血管がうっすらと見える。陰毛は周辺を剃って、小さな三角地帯だけを残していた。
彼女の顔から判断して20代後半だろうと思っていたが、乳房の張りや瑞々(みずみず)しい肌に考えを変えた。20歳前後なのかもしれない。
ミーシャ
彼女はプロの仕事をこなした。終わると緊張が解けたのか、さかんにロシア語らしき言葉で独り言を言った。意味は分からない。
巻き舌のそれを真似ると彼女はくすくすと笑い、一生懸命に発音を矯正して完璧に近づけようと努力した。
彼女の乳房をもてあそびながら、いつの間にかロシア語講座を受ける羽目になった。彼女は何度も発音を訂正した。
ナナは笑いながらも、真剣だった。きっと何事にも一途になる性格なのだろう。結局、セックスと同じくらいの時間をロシア語の発音に割いたように思う。
すっかりナナが面白くなったので、翌日もソイ3に行きナナの姿を捜した。ロシアの女性がソイ3に5~6人ほど固まって煙草を吸っていたがナナの姿はない。
彼女たちに「ナナを知ってる?」と聞くとほぼ全員が「イエス」と答えた。「彼女はどこにいるの?」と質問すると、そのうちのひとりが肩をすくめて「知らない」と答えた。
他の男に買われたのだとすぐに悟った。そうでなければ、もっと別の答え方をするはずだろう。
ナナが目当てだったので、どうしようか迷った。すると、女のひとりが煙草を捨てて身体をぴったり密着させてきた。そして「わたしはどう?」とモーションをかけてくる。
ナナと違って化粧が厚く、人工的な雰囲気がした。
どこか退廃の匂いを感じさせる女だった。名前を聞くとミーシャと答えた。やはりロシア出身だ。
曖昧な答え方をしながら5分ほど時間を稼いで目当てのナナを待ったが、結局彼女は姿を見せずじまいだった。ミーシャと一緒にいることにした。
どこに滞在してるの?
ミーシャはぶっきらぼうでそっけなく、どこか投げやりなところがあった。まったく噛み合わないまま、事務的に彼女の仕事を終わらせて別れた。
やはり別の女のことが頭にあるとうまくいかないもので、必ずしもミーシャが悪かったわけでもないように思う。
女は信じられないほど敏感な生き物だ。他の女のことを考えていると、すぐに悟られてしまう。
満たされないものを抱え、翌日の夜になるとまたもやソイ3に行く羽目になった。
今度は何時間待ってでもナナを指名する覚悟だった。路地にはやはりナナの姿は見えず、失望した。通りに立っている白人の女たちに尋ねても、昨日と同じく肩をすくめて「知らない」と言う。
ナナは特に美人というわけではなかった。スタイルもそれほどいいわけでもない。
確かにセクシーな服を着せればそれなりに見えるが、普通の服を着せれば、何の取り柄もない平凡な女性に早変わりするに違いない。
それでもナナにこだわったのは、彼女の性格が心地良かったからだ。優しく飾り気のない性格が、そのときの気分にぴったりと合っていたのだ。
アルバニアから来たという金髪の白人女性と時間をつぶしながら待っていると、10分ほどでナナが姿を見せた。
そんなに待たずに彼女に会えたのはラッキーだった。挨拶すると彼女は笑みを浮かべてそれに応えてくれた。
「このあたりはロシア女性が多いけど、みんなどこに滞在してるの?」
そう尋ねると、彼女は「この近く」と答えた。少し好奇心を持ったので「そのホテルに行きたい」と言ってみる。”No Good.”(それは良くない)と彼女は答えた。
「わたしのホテルはノー・グッド。だからあなたのホテルに行く」
リージェント・ホテル
ノー・グッドと言われると、どんな風に良くないのか急に彼女の部屋を見たくなった。頼み込むと、ナナは男の妙な好奇心に苦笑いしながら了解した。
「でも、あなたはホテルに300バーツをペイしなければならない」
いわゆるジョイナー・フィーのことを言っているようで「それでもいいのか」と尋ねているのだ。もちろん異論はなかった。
ナナに連れて行かれたのは、ソイ3を右手に折れたリージェント・ホテルだった。
一見ホテルとは分からない古い建物である。ホテルの入口はアラブ系の男たち、ロシア人売春女性、タトゥを刺したタイ人の男たちで溢れている。
男たちは容赦ない視線を投げかけてきて、決して目をそらそうとしなかった。ロビーでたむろしている白人の女たちもまた、ナナと一緒に入ってきた闖入者を冷ややかな視線で見つめていた。
その中でも2、3人の女は息を飲むような美しさだった。
ホテルのフロントの痩せたタイ人女性は電話を取ったまま、金をよこせと手だけを差し出した。彼女のまわりにいた屈強なタイ人男性が「300バーツだ」と言う。
財布を取り出して金を払おうとすると、ほぼ全員が財布の中をのぞき込んできた。まるでまな板の鯉になった気分だった。
金を払っても、なぜかカウンターの女は鍵を出さなかった。ナナは「大丈夫」と言いながら奥のエレベータまで歩いていき、やって来たエレベータに乗り込んだ。
エレベータのランプはつかず、ボタンを押してもちゃんと作動しているのか不安になる。
エレベータは古くて動きがゆっくりしており、箱の中は煙草の匂いが充満していた。売春女性やアラブ系の男たちはどこでも煙草を吸う。エレベータの中も例外ではないようだった。
数人の女たちが共同生活している部屋
連れて行かれた5階は部屋が5つほどあり、その中の一番奥が目指す部屋のようだった。
ナナはドアをノックした。鍵をもらえないわけが分かった。部屋には誰かいるのだ。中から反応がなく、ナナはドアのノブをがちゃがちゃさせてさらにノックを続けた。
しばらくしてゆっくりとドアが開き、中からひとりの男が出てきた。
生気のない痩せた白人の男で、歳は40歳くらいだろうか。派手なシャツと金のネックレスは、この男が旅行者ではなくマフィアの一員であることを窺わせた。
この男とナナはロシア語で短い会話をして、男は鋭い一瞥をくれて部屋を出て行った。
部屋に入ると窓は開けっ放しになっていた。下をのぞくとソイ3からひとつ中に入った路地が見える。
路地にいたアラブ系の男たちと、たちどころに視線が合った。どうやらこのホテル全体は鉄格子のない監獄のように見張られているようだ。点けっぱなしのテレビは白黒の画像が流れていた。
ナナにベッドに座らせられた。
彼女は一度部屋の奥に行き、それから今度は何も言わず部屋から出て行った。突然、部屋の中にひとり取り残され、はっとして最悪の事態を覚悟した。
このホテルがマフィアの巣窟になっているのはどんな鈍い男でも分かる。
その中で女に導かれてのこのこやって来たあげく、ひとりで部屋に放り出されているのだ。次に何が起きてもおかしくない。
ベッドはトリプルベッドのサイズだった。部屋の隅にはマットレスに毛布を敷いた簡易ベッドも置いてある。
よく見ると段ボールが6個ほど2段に積み上げられて、一番上の段ボールの口から女性ものの下着や衣類が詰め込まれているのが見えた。
どうやらここで数人の女たちが共同生活している気配だった。
モスクワに帰りたい
しばらくして入口のドアが開く気配がした。いよいよ男たちがカネ目当てにやってきたのだろうか。
背筋に冷たいものを感じたが、姿を見せたのはさっき出ていったばかりのナナだった。
“What”s is happen?(どうしたんだい?)と尋ねたが、ナナは”Nothing”(別に)と答えてベッドに身体を投げ出した。
“This hotel is no good.”(このホテルは最低ね)
ナナは顔をしかめながら言った。
“Are you stay here?”(ここにステイしているの?)
“Yes”(イエス)
“How many stay in this room?”(この部屋で何人くらい?)
そう尋ねると”six”(6人)と言う。なるほど、それくらいの人間が共同生活をしている「生活臭」がこの部屋から漂ってきている。
ナナとはここで刹那的な愛を交わした。
“I want to go back to Moscow. But No work, No money.”
(モスクワに帰りたい。でも、帰っても仕事がない。お金がない)
そう訴えるナナを抱きながら、いつしかカンボジアの70ストリートの女たちのことを思い出した。
いずれにせよ、ナナも70ストリートの女たちも資本主義の犠牲者として底なしの地獄まで堕ちてしまった境遇だ。
マフィアの商売道具にされ、場末の売春宿で大勢の男の慰み物にされて朽ち果ててしまう人生が待っている。
長い内戦によって経済が破綻したカンボジアには貧困が蔓延(はびこ)っている。戦争が国を破綻に追いやった分かりやすい例だ。
一方のロシア(ソ連)もまた、かつては超大国として君臨したにもかかわらず、アメリカとの冷戦構造やアフガニスタンとの戦争によって国を疲弊させてしまった。ここにも暗い戦争の影がある。
1979年にアフガンに侵略したソ連はそれから延々と10年間に渡って残虐な戦争を続け、この戦争に敗北してしまった。
イスラム教を罵る共産主義者に対して、燃え上がるような宗教心で戦いに望んだアフガニスタンのゲリラ統一戦線に、ソ連は為す術もなかった。そして、戦意を失ってしまったのだ。
貧窮に追い込まれたロシアの娘たち
この侵略戦争がやがて自国を破滅に追いやるほどの経済的負担、人的負担を与えていることに気がついたソ連の首脳陣はプライドを捨てて撤退した。
しかし、その時にはすでに時遅しだった。国内経済は手の打ちようもなく完全に自壊していた。それから4年後、ソ連は崩壊してしまった。
1992年のソビエト社会主義連邦共和国の瓦解は、この国を長らく統制してきた共産党の崩壊だった。
共産党の次にやってきたのはエリツィン率いる民主主義だったが、これが見事に失敗してしまい、その後のロシアの迷走は周知の事象である。
度重なる経済危機に翻弄されてバランスを失っていくエリツィン政権、マフィアの台頭、そしてチェルノムイルジン等、大物政府高官の派手な汚職、債務履行遅延(モラトリアム)、プーチン大統領と原潜事故……。
ロシアから流れてくるニュースはどれもこれも破滅的なものばかりであり、現在もまだロシアは立ち直る気配すら見せていない。
そして貧窮に追い込まれたロシアの娘たちは、自らの身体をマフィアにゆだねた。
2000年8月に、カンボジアでは7人の旧ソビエト連邦の娘たちが保護されたが、これは氷山の一角に過ぎなかった。
実際にはタイを舞台にロシアン・マフィアが暗躍し、貧困で立ちゆかなくなった女性を供給し始めている。ナナが共同生活しているホテルにはそういう女たちが30人ほどいるようだ。
悪い意味の平等
彼女たちは故郷を捨て、慣れない熱帯の国の不潔なホテルで共同生活を強いられている。
マフィアに監視され、聞いたこともないような国の男たちに抱かれる。結局、悲惨な状況に陥った女性たちにとって取るべき選択肢は売春でしかないのか。
コロンビア女性は日本で売春を行い、タイ女性はスリランカで売春を行い、ベトナム女性はカンボジアで売春を行い、北朝鮮女性は中国で売春を行い、ネパール女性はインドで売春を行う。
そして、ロシア女性はタイで身体を開き、望郷の念を口走りながら男を迎え入れる。
戦争を始めるのは男たち、代償を払うのは女たち。そして、女が身体で払う代償を受け取るのもまた男だ。
しばらくして、シャワーを浴びようとバスルームに行くと、ナナはスリッパを用意してくれた。
シャワーは壊れてるし、水しか出ないのだとナナは肩をすくめながら説明してくれた。
バスルームを見ると、誰かが土足で出入りしているせいか、床は土やゴミで黒ずんで恐ろしく不潔な状態になっていた。
便器もこびりついた汚物で汚れ、女たちの下着が便器わきに干されているのが何か物悲しいものを感じさせた。ここで水を浴びて、ベッドに戻って服を着替えた。
ナナは部屋に残るというので、ひとりで部屋を出た。外にはマフィア風の痩せた男がじっと廊下に立ちつくしていた。
出てきた客を見るとただ顎をしゃくっただけで挨拶し、入れ替わりで部屋の中に消えて行った。どうやらナナがビジネスをしている間、じっと部屋の外で待っていたようだ。
エレベータは相変わらず動いているのかどうか分からないので、階段で下に降りて行った。どの階もマフィア風の男がそれぞれ立っており、中には女と言い争いしている男もいた。女はやはり白人ロシア系だった。
檻のない収容所のようなホテルを出て、ふとこの世には「平等な世界」が底辺では存在していることに気がついた。
貧困に喘ぎ、何も持たない女は、国籍・人種を問わず「平等に食い物にされる」という悪い意味の平等だ。
ナナはそんな「平等」の中に堕ちてしまった。そして、「モスクワに帰りたい」と言いながら、いろんな男たちに抱かれ続ける。
傾城さんの現役感がビンビン伝わってきます。
情報に基づいた記事は客観性があり、事実把握することができますが、実感が伴いません。要は他人事、対岸の火事です。
しかし、強烈な実体験とその蓄積された経験値に基づいた記事は実感が伴い、まるで自己体験のような錯覚さえ覚えます。
売春宿に落とされ、搾取され続けるしかない女性達の絶望感がこれ程伝わった記事は、初めてです。
いつ頃の話でしょうか。
ガウさん
ナナと出会ったのは2001年頃の話です。ちょうどその頃は、アジア通貨危機からロシアの債務不履行でロシアが危機に直面していた時です。ロシアが最も危機にあった頃でした。アジアにも売られてきたロシア女性がたくさんいました。日本にもロシアン・パブというのがあったはずです。プーチンが登場したのものこの頃なのですが、考えてみればプーチンも長いですね。