タイ編
真夜中だったが、派手な格好をした夜の女と、酔った男たちが大騒ぎしていた。相変わらず、バンコクはにぎやかだった。
ソイ・カウボーイを出て、スクンビット通りをふらふらと歩いていく。高架鉄道BTSのアソック駅ができてからだと思うが、この当たりにも女たちが立つようになったのは興味深い。
ロビンソン・デパートを少し過ぎたとき、道のわきに立っていた女が”Oh !!”(まあ!)と言いながら、そばに寄ってきた。
“Long time no see!”(久しぶりね!)
見覚えがなかった
大きく胸元の開いた白い服を着ていたが、それはセクシーというよりも、どことなく清楚な雰囲気がした。
急に声をかけられたので驚いて立ちどまり、それからまじまじと彼女を見つめる。見覚えがなかった。しばし、考える。
忘れたのか……。
いったい彼女が誰なのか、猛烈に頭を回転させた。しかし、思い出せない。 ほっそりとしており、髪は肩まであり、どこか疲れた顔をしている。
もし、彼女がオープンバーにいたとしたら、抵抗なくペイバーしただろう。今、そう思うのだから、過去にペイバーしたということはあり得る。
しかし、ペイバーした女を忘れることなどあるのだろうか。ますます彼女の顔を凝視した。彼女は屈託のない、本当に嬉しそうな顔を向けていた。そして、こちらの顔をのぞき込む。
「あなたはいつバンコクに戻ってきたの?」
「3日前だよ。バングラデシュから戻ってきた」
「バングラデシュに行ってたの?」
そんな会話をしながらも、彼女を上から下まで見つめていた。
そして、これはもしかしたら新手の詐欺のひとつなのだろうか、それとも本当に彼女のことを忘れてしまったのか、と混乱しながら考え続けた。
いつまでも親近感を見せない男に、彼女は戸惑った様子になった。その感情の素直さが、詐欺には見えなかった。
完膚なまでに忘れてしまった
本当に彼女は戸惑っているのだ。だとすれば、彼女とは過去のどこかで知り合っており、完全にその記憶を欠落しているということなのか。
「覚えていないの?」
そう言われたとき、自分の感情をいとも簡単に読み取られていることに情けない気持ちになった。とっさに場をつくろうように、「覚えているよ」と口に出してしまった。
覚えていないと言って、再会を喜んでいる彼女の表情を曇らせたくないという気持ちがあったのかもしれない。
いや、女を完膚なまでに忘れてしまったという事実を認めたくなかったのかもしれない。
女たちのことは、絶対に、何があっても忘れないつもりでいた。それが自分の生きている証(あかし)だとも思っているくらいだ。
だから、「忘れてしまった」というのは絶対に認めたくなかった。
そういうこともあって、負け惜しみのような、あるいは意地のような気持ちが「覚えているよ」という言葉になって無意識に出てしまったのかもしれない。
彼女は少し安心したようで、再びにっこりと笑い「本当に久しぶり!」と再び言った。そして、こう続けた。「ホテルに帰るんでしょ。あなたと一緒に行っていい?」
食い入るように彼女を見つめ続けても、過去に彼女と一緒だったという記憶は片鱗さえ思い浮かんで来ない。もしかしたら、彼女はイメージ・チェンジをしたのだろうか。
昔は短かった髪を伸ばしたとか、昔よりも痩せたとか、そういう変化で見分けがつかなくなってしまったのか……。
それともあまりに多くの女たちとつき合い過ぎて、もう誰が誰だか分からなくなってしまったのだろうか。いずれにせよ、態度を決めなければならなかった。
「一緒に来てもいいよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうだった。彼女の肩を抱いて歩きながら、過去の女たちを次から次へと思い出していた。まだ、誰が彼女なのかを考えていたのだ。
ダーウ
奇妙な経験だった。まさか関係した女を跡形もなく忘れてしまっているのに、彼女の方はこちらを鮮明に覚えているようだ。
「悪いけど、名前は忘れてしまった」
「ダーウよ」
ダーウか、と失望する。それはタイではあまりにもありふれた、どこにでもある名前(チューレン)だった。
ダーウ、という名前のつく女は過去に何人も知り合った。しかし、彼女はその誰とも別人だった。
ふと、映画や小説で記憶喪失になった登場人物が、自分の家族のことも、配偶者のことも、まったく思い出せなくて苦しむ場面を思い出した。
あれを見ていると、それほど完璧に大切な記憶が失われるものだろうかと常々疑問に思っていたが、本当に彼女のことをまったく何も覚えていなかった。
そのとき、もしかしたら彼女の方が間違ったのではないかとひらめいた。つまり、ダーウが自分を誰か別人と間違えているのだ。そうとしか思えない。
きっと過去によく似た別の男に拾われ、たまたま歩いている男が、その男だと勘違いしたのだろう。
そう考えると、なぜか少しほっとした。ただ、それもこちらの推測に過ぎず、それを彼女に訊ねるわけにもいかなかったので、黙っていた。
振り返ると目が合い、ダーウはにっこりと笑って手をつないで来る。人なつっこく、性格のいい娘だった。
過去に会ったことがあったのかどうか、そんなことはどうでもいい気持ちになった。
ただ、もし本当に忘れているのだとしたら、そういう女たちが他にたくさん他にもいるのかもしれないと思って少し憂鬱になった。
何もかもが曖昧になるときが来る
ホテルには歩いて戻れる距離にあった。ダーウが何か言ってくれれば、それをヒントにできる。
自分が忘れてしまったのか、彼女が間違えているのか、事実関係が明らかになって行くだろうとは思ったが、彼女はあまり話をしなかった。
部屋に入って鍵を閉めると、ダーウはすぐに鏡で化粧をチェックした。薄暗がりの道に立っていた彼女を見たとき、プロの匂いのする女だと思っていた。
しかし、鏡で自分の化粧が乱れていないかチェックする彼女を見ていると、どこか危うい素人のような印象を受けた。たぶん、化粧がそんなに派手ではなかったからだろう。
ダーウは振り返り、再び人なつっこい笑みを浮かべた。
「シャワーを浴びて来ていい?」
そう訊ねる彼女にうなずいた。彼女がシャワーを浴びている間、部屋に備えつけられていたソファに座り込んで、改めてダーウが何者なのかを考えずにいられなかった。
もし、過去に彼女と出会ったのが本当だったとして、それを完璧に忘れてしまっているのであれば、いよいよ恐れていたことがやってきたということだ。
つまり、他にも大勢忘れているかもしれないことを示しているのだ。それは非常なショックであり、自分の記憶に対する自信喪失でもあった。
だんだん歳を取っていけば自然と物忘れをするようになる。早い人は30代で、どんなに遅くても40代にもなれば、覚えるよりも忘れるほうが早くなるのだという。
遅かれ早かれそうなるのだ。
そのうちに何もかもが曖昧になるときが来る可能性もある。そんなことを心配しなくてはならないときが来たようだ。
何も思い出すものがなかった
やがてダーウがバスタオルを巻いてシャワー室から出てきたとき、すっかり思い出す努力に疲れ果て、それから投げやりになっていた。
もしかしたら彼女を抱くと、思い出すかも知れないという期待感を抱いた。シャワーを浴びて戻ると、彼女はシーツに潜り込んで待っていた。
身体を拭いてゆっくりと彼女の待つベッドに入った。しかし、何も思い出すことはなかった。
ダーウは敏感にそれを察しており、ダーウ自身も楽しそうではなかった。男が何も覚えていないというのが、雰囲気で伝わったのかもしれなかった。
ダーウは問いつめることはなかったけれども、どこか見限るようなしぐさで、よそよそしく服を着替えはじめた。怒っているのだが、それを態度に現さないように自制しているように見えた。
ダーウに、もっと一緒にいてくれと言う気持ちになれなかった。彼女が嫌いではないし、むしろもっと親しく話してみたかったが、彼女を思い出せないということが壁になっていた。
彼女は明らかにこちらを知っている。それは態度で分かる。しかし、彼女を思い出せないというのは、彼女との関係は大して重要な女性ではなかったということを意味していた。
そして、男が何もかも忘れているというのは、あちこちの女を好き放題に抱いているからだというのも彼女は分かっていただろう。
いくら仕事だとは言え、自分を完全に忘れ去って思い出しもしない男には軽蔑したくもなるだろう。軽蔑まで行かないとしても、少なくとも失望してしまうはずだ。
記憶喪失のままでいる
逆の立場で考えてみれば分かる。
久しぶりに会った女に声をかけて、相手が自分のことを完全に忘れていたら、自分はそんなに存在感がなかったのかと悲しくなるはずだ。
帰り際、彼女は振り返って笑みを見せてくれたが、その笑みはあまり力がなかった。声をかけてくれた最初の喜びや人なつっこさはすっかり消えてしまい、どこかよそよそしい感情さえ読み取れるほどだった。
やがて彼女がいなくなって、ひとりで部屋に取り残された。さっさと寝ようと思ったが、どうしてもダーウが誰だったのか、気になって眠れなかった。
もう昔の女たちを全部覚えているという自信がなかった。
記憶は風化して行き、女たちも歳を取って変わっていく。女たちは流行に合わせてファッションを変え、髪型を変え、化粧を変え、態度を変えてしまうだろう。
誰もが過去のままではない。そして、年月が過ぎれば、様々な経験が重なって性格さえ変わってしまう。
昔、関係を持った女たちはどう変わったのだろう。ダーウも、すっかり昔と違ってしまったのだろうか。
起き上がり、服を着替え、そして再び街に出た。誰だ。彼女はどこのダーウだったんだ。彼女は誰だったのか……。心の中で何度もそうつぶやきながら、歓楽街を歩き続けた。
今でも、ダーウが過去に関係したことのある女だったのか、それとも初めて抱いた女だったのか分からない。ダーウに関して、記憶喪失のままでいる。
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