◆キル・ベイビー 。彼女は妊娠と性病とエイズの恐怖に泣いた

◆キル・ベイビー 。彼女は妊娠と性病とエイズの恐怖に泣いた

タイ編
悲劇は突然やって来る。前触れなどまったくない。この日もそうだった。

ゴーゴーバーをはしごしているうちに飽きてしまったので、久しぶりに2階のライブ・バーに寄ってみようと考えた。

昔は大好きだったライブ・バーも最近はあまり行かなくなっている。しかしどういうわけか、この日は無性に寄ってみたくなった。

かつてのライブ・バー

パッポンのハードコアと言えば、2階のライブ・バーになる。1階のゴーゴー・バーが決してバタフライ(ビキニの下)を脱ぐことはない。

しかし、2階はオールヌードで踊り狂い、性器を使った様々なショーが繰り広げられている。 それが好きだというよりも、その退廃の雰囲気が好きだった。

かつては男女によるセックス・ショーまでもが公然と行われていたが、たび重なる警察の手入れによって今ではすっかり自制された。

まだセックス・ショーが普通にあった頃、2階のライブショーには立錐の余地もないほど男たちが詰めかけて、燃え上がるような熱気に溢れていた。

警察が踏み込んできた現場に居合わせて混乱の中で逃げ回ったこともある。

かつてのパッポンは1階は単なる休憩所で、本当のお楽しみや狂態はすべて2階のライブ・バーにあった。美しい女も楽しい女もぶっ飛んだ女も、すべてはそこに集結していた。

1階はパッポン初心者専用のコーナーで、2階こそがメインだったのだ。 もちろん当時から「ぼったくりバー」が2階にあり、間違えて変なところに入った男たちはひどい目に遭わされていた。

ポン引きたちは今よりもはるかにしつこく陰湿だった。パッポンに入ってから出るまでの一時間、ひたすら追い回されてすっかりパッポン嫌いになった男もいたくらいだ。

結局、セックス・ショーを敵視する警察の手入れと、常軌を逸したポン引きのしつこさが、パッポン2階のライブ・バーの息の根をとめた。

今でもライブ・ショーは相変わらず息づいているが、過去の狂乱的とも言える熱気を知っている人間にはまったく物足りない場所になってしまった。

ショーを見に来る男たちは少なくなり、女性の数も極端に減った。

白いシースルーの衣装

もうライブ・バーに寄らなくなったのは、そんな淋しい雰囲気にがっかりしてしまうことが多いからだ。

ここに足を向けるたびに、過去の熱気を思い出して今と較べ、閑散とした店内にいたたまれなくなってしまう。

しかし、それでもパッポンのハードコアと言えば2階しかない。女性たちは性器を使った数々の技を繰り広げ、酔っ払った男たちに性器を露出してみせる。

久しぶりに2階に続く階段を上って行ったとき、ちょうど引き締まった身体の女が ZZ TOP の大ヒット曲のリズムに乗って弾けるようなダンスをしているところだった。

彼女の身体は器械体操の選手のように見事な動きを見せていた。

ソファに座ると数人の女が飛んで来た。1階の女たちの接客はビキニだが、2階の女たちはシースルーのタンクトップをふわりと着ているだけで、下着は何もつけていない。

彼女たちは積極的に客の膝の上に座り、男の手を取って剥き出しの胸を触らせる。

胸から下半身に手を滑らせていくと陰毛に突き当たり、胸どころか下半身も剥き出しなのが分かる。薄暗い店内で白いシースルーの衣装や目の白い部分や白い歯が蛍光色のようになって闇に光った。

本当はここでペイバーするつもりはなかった。

しかし、膝に乗ってきた女のうちのひとりは、誰もがかなわないほど魅力的なスタイルのボディを持っており、たちまち彼女に惹かれてしまった。

背は160センチほどだと思う。しかし、その長い手足は彼女を実際よりも大きな女性に見せていた。

薄暗い店内でも彼女の大きな美しい目やスタイル抜群の身体は群を抜いて目立っていた。

パビリオン・ホテル

彼女の名前は「ホン」と言った。ホンと書けば「本」のような発音を無意識に思うが、そうではなく、「ホ」と「ト」が混じったような微妙なアクセントの「ホン」である。

“You are Beautiful.”(キレイだね)

英語で言うと、彼女は”Really?”(本当?)と抜群な英語の発音で返した。「本当だよ」と言うと、彼女は笑いながら首を振った。

“I’m not beautiful. No good!”
(わたしはキレイじゃない。ノー・グッドよ)

“Why do you think so?”(なぜ、そう思うの?)
“Because really No good!”(だって、本当にノー・グッドだもん)

彼女は笑って頬にキスをしてきた。アジア女性特有の謙遜かもしれないが、モデルのように美しいスタイルを持った女性に謙遜は似合わない。

そのうち、すっかり意気投合した。5分もしないうちに”Paybar me. Go to your hotel.”(ペイバーして。一緒にホテルに行きましょう)と彼女が甘えた声でささやいた。

「もし、君が”I’m good”(わたしはグッド)と言えばペイバーするよ。”I’m No good”(わたしはノー・グッド)ならペイバーしない」

彼女は嬌声を上げて、それからやっと照れくさそうに言った。

“I’m good”(わたしはグッドよ)

互いに笑い合って抱擁し、それから彼女の耳元で「ペイバーするよ」と答えた。彼女は「着替えてくるから、ここで待っててね」と念を押して消えて行った。

ぴっちりしたオレンジ色のシャツにタイトなジーンズをはいた彼女は、改めて見るとやはり手足の長さに惚れ惚れしてしまう。

タイでは足の長い女性が多いが、ホンはまったく格別だった。胸は若干小さめだが、そのバランスの取れたスタイルは文句のつけようがない。

一緒にパッポンの街に出て、腕を組みながらホテルまで歩いて行く。「どこに泊まってるの?」とホンが尋ねるので、「パビリオン・ホテルだよ」と答えた。

パッポン2にあるこのホテルは、いちいち他の地区からパッポンに繰り出すのが次第に面倒臭くなったときに見つけたホテルだった。

パッポンをメインに沈没したいときは大抵ここに泊まるようにしている。夜は非常にやかましいが、ハイエナは昼夜が逆転しているので文句はない。

ホンは「パビリオンならパッポン2ね。こっちよ」と案内し始める。勝手知ったパッポンだが、彼女が嬉々として案内してくれるので、初心者のような顔をしてついて行くことにした。

たちまちパビリオンホテルを見つけた彼女は得意そうな顔をした。ませた少女のような表情がかわいらしかった。彼女を自分の部屋に案内した。

黒い肌の劣等感から来る言葉

明るい部屋の中で彼女を見ると、この女性が黒人のように褐色の肌を持っていることに今さらながら気がついた。

暗い店内や夜道ではそれほど気にならなかったが、明るい部屋の中で見るとさすがに褐色の肌が目立つ。

彼女が自分のことを「ノー・グッド」と言っていた原因がこれだったのかと気がついた。タイでは白い肌が美人の条件のひとつになっている。

いや、タイのみならず東南アジアのほとんどの国では「白い肌こそが美しい」と信じられているのだ。カンボジア・ベトナム・ミャンマー・フィリピン・インドネシア……すべてそうだ。

東南アジアでは「ブラック・イズ・ビューティフル」は絶対的に通用しない。そんな風潮の中で育つと、どんなにスタイルが良くてもホンのように黒い肌の女性は自信が持てなくなるのだろう。

しかし、ホンが美しくないなど誰が言えるのだろう。

熱帯の太陽をたっぷり吸ったこの女性はたとえようもなく美しかった。褐色の肌はホンの個性のひとつになることはあっても、美醜の基準にはならない。

仮に美醜の対象だと考えたとしても、彼女を野性的な雰囲気に見せている褐色の肌は利点になる。男をその気にさせるのに十分な熱い肌がここにある。

ホンはシャワーを浴び、バスタオルを巻いて戻って来た。そのあと、こちらも簡単にシャワーを浴びてベッドに飛び込む。

ホンは首飾りをひとつ、腕にはふたつの腕輪をつけていた。また人差し指・中指・薬指の三本にはひとつずつゴールドの指輪がある。首飾りには小さな仏陀がついていた。

タイの人々は心から仏教を信じているが、信心深い女性になると必ず仏陀の首飾りをつける。

昔もそうだったし、今も変わらない。ホン以外にもこの首飾りをぶら下げている女性を知っている。

唐突に悲劇が始まった

彼女はコンドームをかぶせ、自分の中に迎え入れた。セックスの最中もホンは笑顔を向けてよく話をした。彼女は驚くほど英語ができて、細かい事柄を説明するのにまったく苦労しない。

頭が良いこともあるのだろうが、それだけ多くの欧米人にペイバーされているからに違いない。

彼女のモデルのようなボディや褐色の肌が醸し出す全体的な雰囲気は、欧米の男たちが好みそうなエキゾチックな香りを漂わせている。

聞いてみると日本人にペイバーされたことは今までに二度か三度くらいしかないとホンは言った。何となく納得できる。日本人はモデル系の美人をあまり好まないからだ。それは日本人の一般的な傾向だ。

歳を聞くと彼女は26歳だと答えた。まだ肌の張りも失っておらず、彼女の心地良さにこれから何度も彼女をペイバーするかもしれないと考えた。

彼女に没頭した。長い時間ふたりで楽しみ、余韻を楽しんでいた。しかし、ここから唐突に悲劇が始まった……。

絶句した。コンドームが破れていたからだ。行為の最中にはまったく気がつかなかった。彼女は弾けるようにベッドから起きあがり、シャワー室に消えて行った。

遅れてシャワー室に行くと、彼女は泣きながら座り込み、シャワーの水を膣に当てて何とかしようとしている最中だった。その姿は壮絶であり、鬼気迫るものを感じさせた。

こちらは性病が頭にちらついていた。しかし、水に流して淋病や梅毒が防止できるなら、誰もSTD(性感染症)にはかからない。

無駄だとは分かっていたが、何もしないよりマシだ。水を浴びながら、後は運を天に任せるしかない。

エイズの検査はしてるの?

ホンはショックのあまり、冷たいタイルの上に直座りして泣き出してしまった。売春ビジネスをしているのであれば、こういうこともあるはずだったが、ホンが恐れおののいているのが分かった。

泣き続ける彼女を起こして上げてベッドまで連れて行き、バスタオルで身体を拭いて上げた。

「あなた、エイズの検査はしてるの?」
「俺はエイズじゃない。いつもコンドームを使っている」
「わたしもエイズじゃない」

さらに「君はいつもコンドームは使っているのか?」と尋ねると、「今はイエス。昔はピルを飲んでいたので、たまに使ったり使わなかったりしてた」と正直に答えてくれた。

いつ頃、ピルをやめたのか聞くと「半年くらい前」と答える。最後に彼女が他の男の精液を受けとめたのが半年前だとすると、それからずっとコンドームを使っていることになる。

だとすれば、淋病や梅毒や尖圭コンジロームという有名どころの性病は大丈夫だろうと考えた。今の彼女にそれらしき症状が出ていないからだ。

もちろん、気休めにしか過ぎなかったが、最悪の事態ではなさそうだという安堵感のようなものを感じた。

ホンがもっとルーズな女性であれば、もっと危機的だった可能性もある。

しかし、彼女がエイズのキャリアかどうかは、いくら本人が違うと言っても調べてみないことには何とも言えない。

そもそもエイズにかかっていたとしてもそれを売春の相手に言うことなど絶対に有り得ない。

心にくすぶっていた暗い澱(おり)

自分がエイズだという噂が立ち上ると売春女性として生きて行けなくなる。また売春相手に対する責任問題に発展する恐れも出てくる。

だから、女性が素直にHIVのキャリアであることを認めて誉められることは何もない。ホンもそうかもしれないと現実的に考えた。

過去、エイズの幻影に苦しめられてきたのを改めて思い出した。

25歳の頃、自暴自棄に陥っていて、もう死んでもいいと思いながら、パッポンの女性を何の防備もなしに抱いていた時期があった。

その後、精神的に落ち着き始めると、今度は無防備なセックスを振り返って震え上がったのだった。「自分はエイズにかかったかもしれない」と言う絶え間ない疑心暗鬼にあっという間にとらわれた。

検査には行かなかった。行けなかった。陽性だと判断されればもう生きる希望はすべてなくしてしまう。それくらいなら何も知らないで暮らしていた方がまだ気が楽だった。

しかし、自分はエイズではないかという、定期的に襲ってくる疑念に悩んだあげく、やっと意を決して検査を受けた。

そして、自分がエイズではないことを知った。心にくすぶっていた暗い澱(おり)のようなものは、陰性という結果でもあまり晴れなかった。

あまりにも長い間、自分がHIVのキャリアであるかもしれないと思いながら生きてきたので、死を意識しないことはなくなっていた。

そのときのことを思い出して、苦い気持ちを噛みしめた。しかし、今はもう過去とは違っていた。

20歳に初めてパッポンで売春女性と関係を持ってからこれまで反復してきた。これからもやめるつもりはない。だからある日、エイズで死ぬことを覚悟していた。

妊娠したら困るわ

エイズではなくても売春地帯で殺されるかもしれない。女を巡るいざこざは激しい暴力となって襲いかかってくるのは世の常だ。

いずれにせよ、売春に関連した死を迎えるはずだと感じていた。

マフィアや麻薬や売春女性、病原体のはびこる夜の売春地帯に出入りして、長生きできるはずがない。考えなくても分かる。

いつかはこうなるのだと覚悟はあったので、STD(性感染症)やHIVに関しては、もはや締めつけられるような不安はなかった。怖かったが、いずれ来るものが来たという寂寥感だけだ。

妊娠したら困ると言いながら、彼女は再び声を上げて泣き出した。できることと言えば、黙って抱擁して上げることくらいだった。

「もし妊娠していたら、わたしはベイビーを殺す」

彼女は両手で棒をへし折るしぐさをして、子供を中絶する意味を示した。”Kill baby”の”Kill”(殺す)という言葉が耳から離れなかった。

黙ってうなずき、彼女が「ベイビーを殺す」ことに同意した。重く暗い気分だった。殺人を同意したような気になった。

「胎児は人間ではない」と一部の医学者は言う。しかし、胎児がやがては人間になる生命体であることは誰でも知っている。そんな命を殺すのは、やはり女性にとっては精神的に辛いものがあるはずだ。

聞かされているだけでも、そういう気分になるのだから、実際に子供を中絶する女性たちは、まさに自分が「殺した」のだという感覚を持つのがうなずける。

彼女はここに泊まってもいいかと尋ねるので、「もちろんだよ」と同意する。

何も言わないで、じっと抱擁しあった。そして、自分の子供を身ごもることになるかもしれない女性と少しうたた寝をして朝を迎えた。

彼女はずっと起きたままだった。考え事をしながら一晩中、起きていたようだ。

翌朝の別れ際、彼女の住所を聞いて控えておいた。

「バンコクに戻ってきたら、必ずわたしのところに来て。あなたを待ってる」

エイズ検査

その後、タイから日本に戻ると、ウイルスの抗体が現れる二週間を待ち、エイズ検査を受けた。

もしHIVにかかっていたとしても、ホンを責める気にはとてもならない。自分の行動の帰結だ。

結果を待ちながら、自分がエイズにかかっていたらどうしようかと考えながら過ごした。自棄にならず、生活に気をつけ、ちゃんと治療をしながら生きていけば、5年から10年は生きられる。

しかし、自分がそんな規則正しい生活をしたり、治療をしたりするとは思えなかった。そもそも、延命治療をして一刻一刻をやり過ごすのは性格に合っていない。

とすれば、無為無策の中で一年から二年のうちに死んでしまうことになるに違いない。

いつも時間があれば自分がエイズにかかって死ぬことを考えているので、もうあまり恐怖を感じなくなっている。

開き直ったというよりも、考えすぎて麻痺してしまったのかもしれない。

漁師は海で死ぬ確率が普通の人よりも高い。レーサーは交通事故で死ぬ確率が普通の人よりも高い。漁師は海と接し、レーサーは車と接している。

確率が高くてもとめられない事情があるのなら、心のどこかで覚悟を決めるしかない。

売春地帯をさまよう男の場合は、普通の人以上に売春女性と接するのだから、やはりエイズを覚悟しておくのは当然だ。 確率は高いからだ。

やがて一週間後、検査の結果が出た。

一枚の紙にはそっけなく陰性と書かれていた。その紙を見つめていると、やっと大きな荷物を下ろしたような気持ちになって、しばらく放心した。それは「もう少し生きられる」という安堵感だったかもしれない。

ホンがどうだったのか知りたい

7月か8月にはバンコクに戻るとホンに言ってあったが、5月にシンガポールに行く途中、寄る予定のなかったバンコクに降り立った。

ホンに会うつもりでいた。

下手すれば、面倒なことになるのは分かっていた。ホンが妊娠してるのなら恐らく中絶費用を要求してくるだろう。

妊娠していないのに妊娠したと言って中絶費を要求してくることもあるかもしれない。あるいは、産むと言われたらどうするのか。

面倒を避けたければ、絶対に会うべきではないのだ。しょせん、売春ビジネスの出来事なのだ。会わないと決めても誰も非難することはない。

今なら会いに行くという選択は絶対に取らない。しかし、このときはどうかしていたのかもしれない。「知りたい」という思いが、かなり強烈だった。

合理的でも冷徹でもなかった。結果がマズければ自分に責任がのしかかってくるのも承知していた。その上で知りたかったのだ。

宿はパビリオン・ホテルに取った。

以前、ホンを連れ込んだホテルだ。もう時間は10時を回っている。荷物を置くとすぐさま出かけてホンが所属しているライブ・バーに向かった。

ベイビーがお腹にいるよ!

バーの内部は前と変わっておらず、ちょうどステージでは吹き矢のショーの最中であった。ひとりの女性が矢の入った筒を膣に差し込み、膣圧で矢を飛ばして風船を割っている。

ソファに座ると、数人の女性がやって来て抱きついてくる。彼女たちに「ホンを捜している。彼女はここにいるかい?」と訊いた。そして、ホンの容姿を説明する。

女性たちはすぐに分かってくれて、「イエス。彼女はいるわ」と奥の方を指さした。「友達?」と訊かれたのでうなずいた。

ひとりの首の長い女性が呼びに行ってきてくれて、しばらく待っていると駆け足でスタイルの良い女性がやって来た。

それはまぎれもなく懐かしいホンであった。ホンは満面の笑顔を浮かべ、それから「ハロー」と甘ったるい声を上げて抱きついてきた。

彼女を抱きしめながら、どうやら妊娠はしていなかったようだと直感した。もし、妊娠に困っていたら、もっと深刻な態度を取っていたはずだ。

ホンは何度も”I miss you.”(淋しかったわ)と言いながら、抱擁を繰り返したり声を上げたりする。

他の女性がいなくなってから、ホンの剥き出しのお腹を触りながら「子供はどうだった? 大丈夫なのか?」と恐る恐る尋ねてみた。

すると、ホンは「イエス。わたしたちのベイビーがお腹にいるよ!」と喜びに堪えないような声で言った。

絶句して凍りついた。

彼女は子供を身ごもったというのか。嬉しそうに笑っているということは、もしかして産むつもりなのか。

あまりの驚きように、今度はホンが驚いたらしく、笑いながらも慌ててこうつけ加えた。

「心配しないで。冗談よ」

ソファに力なくもたれて、まじまじとホンを見つめた。

しばらくして苦笑すると、ホンも一緒になって笑う。とりあえず心配事はすべてなくなった。エイズにかかっていなかったし、ホンは妊娠していなかった。

暗い気持ちでこの街を歩く

相変わらず彼女は首や指を装飾品で飾っている。隣に座ったホンは「ペイバーして。一緒にホテルに行こうよ」と弾むような声で言った。

彼女はペイバーされると信じ込んでいたようだったが、ペイバーするつもりはないと首を振って立ち上がった。

ホンは驚いたようだった。「どうして? わたしが嫌いになったの?」と尋ねる。なぜ、と問われても明確な答えがあるわけではなかった。

ひとつ言えるのは、この女性と楽しむために、ここにやって来たのではないということだ。ただ彼女が妊娠していないかどうかを確認しに来ただけだった。

ホンが妊娠していないと言った時点で目的を達してしまった。

彼女は何度もしがみついてペイバーを哀願したが、黙って首を振るばかりだった。とうとうホンは猛烈な怒りを顔に出してそっぽを向いた。

ホンの華奢な肩を触ると、彼女は拒むように手を払った。別れの挨拶をしたかったが、ホンは腕を組んでかたくなに顔をそらしたままだった。

溜息をついて立ち上がり、金を精算してバーを出た。振り向くと、ホンはこちらを一切見ないで奥に消えていく途中だった。

うつむいて歩く彼女の姿を見て、ホンをひどく傷つけてしまったことを後悔した。

彼女をペイバーしていれば、こんな破滅的な別れにはならなかったはずだと思っても、こぼれてしまった水はもう盆に戻ることは決してない。ホンとは結局、最初も最後も苦い想い出だけで終わってしまった。

なぜ彼女をペイバーしなかったのか、今は何となく分かっている。彼女が妊娠に怯えて冷たいタイルに座り込んで泣いている姿や、子供ができたら「キル・ベイビーする」と言った時の表情が焼きついていたのだ。

パッポンはこの日も喧噪の中にあった。今までパッポンではいろんな女性と出会い、別れてきたが、こんなに満たされない空虚な感情を抱いたのは初めてだったかもしれない。

エイズでもなかったし、ホンは妊娠していなかった。

すべてはハッピーエンドだったにもかかわらず、暗い気持ちでこの街を歩いていた。「キル・ベイビー」という言葉だけが耳に残っていた。

ブラックアジア会員登録はこちら

CTA-IMAGE ブラックアジアでは有料会員を募集しています。表記事を読んで関心を持たれた方は、よりディープな世界へお越し下さい。膨大な過去記事、新着記事がすべて読めます。売春、暴力、殺人、狂気。決して表に出てこない社会の強烈なアンダーグラウンドがあります。

タイ編カテゴリの最新記事