「自由が認められる社会は、優しくて生きやすい」という認識は間違っている?

「自由が認められる社会は、優しくて生きやすい」という認識は間違っている?

自由が許容されることによって責任は社会から個人に転嫁され、リスクは個人が負うことになる。その生きかたを選んだのは自分なのだから、その結果も自分の責任になる。けっこう厳しい弱肉強食の社会と化す。そういう自由な世界は、果たして「優しくて生きやすい社会」といえるだろうか?(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

「自分自身がリスクを負うこと」ということ

「自由でありたいか、不自由でいたいか?」と問われたら、誰でも「自由でありたい」と思う。しかし、自由であるというのは「自分自身がリスクを負う」ということでもある。このリスクの面をあまり深く考えない人がいるのは驚く。

たとえば、学校は勉強することを強いており、勉強しないという自由は与えられていない。そこは不自由な世界である。しかし高校にもなれば、勉強したくない生徒は学校を辞めてもいい。学校を辞めた瞬間に自由になる。

しかし、世の中は学歴社会なので「学校を辞める」という自由を得た瞬間に、就職がしにくい、給料が上がりにくい、社会的安定が得られにくいという不自由な現実に直面することになる。

そして、学校を辞めたのは「自分の意志」なので、以後は自分でその不自由な現実と戦っていく必要がある。

学生だけではない。どこかの会社に就職して給料をもらっている従業員も、給料をもらっている以上は「不自由」を強いられる。

勤めるというのは、「勤務時間が決められていて身体を拘束される」という不自由だけがあるわけではない。仕事にふさわしい服装や、態度や、言葉づかいも強いられる。いくら自分には個性があるといえども、会社に合わせなければならないのだ。それは、とても「不自由」なことである。

しかし、現代社会は奴隷社会ではないので、会社を辞めたいのであれば、いつでも辞めることができる。「不自由」から逃れるのは、自分の決断ひとつなのだ。会社に辞表を出した瞬間に自由になる。

しかし、自由を引き換えに課せられるのは「生活するカネを何とかしなければならない」という現実だ。

個人の自由を得るのは簡単なのだが、その自由を維持するためには自分で何とかしなければならない。誰が助けてくれるわけでもない。自由になったことで、「自分自身がリスクを負う」必要が出てくる。

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自由を手に入れるということの意味とは何か?

現代の女性は家に縛りつけられる古い因習から解き放たれた。「嫁ぐ」ことや「家を守る」ことから解放されて自由になった。その代わり、女性は自分の力で自分を養わなければならなくなった。税金も支払う必要がある。

それを「自由」と受けとめる人もいるが、逆に「リスク」と受けとめる人もいる。

単身女性の3人に1人は貧困を余儀なくされているのだが、これは「自由を得たことによる代償」でもある。良い悪いの話ではない。自由を得るというのは、リスクを負うというひとつの形に過ぎない。

社会はさまざまな規範やルールを私たちに課してくる。税金を払え、交通ルールを守れ、裸で歩くな、モノを盗むな、ゴミは決まった日に出せ、ゴミは分別しろ、他人を殴るな、攻撃するな、人を殺すな……。

通常、私たちはこうした社会のルールに「常識だ」と思って従うのだが、これも「不自由」だと思う人が出てきても不思議ではない。

仮に「政府は国民にあれこれ指示するな。自由にさせろ!」という意見が大勢になったとする。

そして、「交通ルールなんかいらない、裸で歩きたい、モノは盗まれるほうが悪い、ゴミはいつでも自分の都合で捨てたい、イヤな奴には思い知らせてやる!」という社会運動に成功して、そうした自由をすべて得たらどうなるのか。

誰も決まりを守らないので社会の秩序は崩壊し、街は無法地帯になり、犯罪も取り締まる人間もいなくなる。国民は「何でも好きにする自由」を手に入れる。しかし、自由なのに、ずいぶん生きにくい社会になるはずだ。

自由を手に入れるというのは、リスクを負うということなのだ。

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それは本当に優しくて生きやすい社会か?

社会が「行動の不自由」「表現の不自由」を国民に強いているのは、それによって国民の生活のリスクが軽減されているということでもあり、一種の優しさであると気づかなければならない。

「何でも自由にする」というのは弱肉強食の社会を生み出す。強い者しか生き残れないような社会になる。

個人事業主や起業家や投資家は自分の意志で経済活動をするわけで、時間を拘束されてやりたくもない仕事を押しつけられている会社の従業員に比べると、とても自由な働き方をしている人に見える。

しかし、彼らはその「自由」の裏側で、大きな「リスク」を背負っている。自分の事業や仕事が手痛く失敗しても、誰も助けてくれない。すべては自己責任だ。そういう背水の陣で生きている。

「自由」であるというのは、残酷な世界だ。

個人事業主や起業家や投資家は、自分の能力や自分の行動が極限まで試されて、だめならばセーフティーネットもなく叩き落とされ、それを「自己責任だから自分で何とかしろ」と突き放される世界なのだ。

だから、この自由の裏側にあるリスクの面を、あまり深く考えない人がいることに私は驚いている。そして、「何でも自由がいい」と思っている無邪気な人に疑問を持っている。自由はタダではない。自由には代償がある。

もし、自由を求めるのであれば、そのリスクをしっかりとわかった上でそれを求めるべきなのだ。

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社会には無数の分断が生まれるようになる

現代は「あらゆる自由を許容する社会」になりつつある。個人が自分のアイデンティティを表現する自由もある。生活スタイルを選ぶ自由もある。社会的・文化的な規範から離れても尊重される自由もある。

食べたいものを食べる自由と、食べたくないものを食べない自由もある。自分の生物的な性別を拒絶する自由もある。従来の枠に縛られない選択肢が増え、自己実現の幅は確実に広がった。

私たちは、それが「優しくて生きやすい社会」に向かって前進しているようなイメージを持っている。しかし、本当は逆かもしれない。こうした自由が無制限に許容されることで、各個人の自由が衝突するからだ。

衝突したくなければ、どうするのか。

相手の自由を尊重するために、互いにかかわらないようにするしかない。共存できない以上、相手と距離をおくようになる。そうすると、自由を得たと同時に、社会には無数の分断が生まれるようになっていく。

さらに、自由が許容されることによって責任は社会から個人に転嫁され、リスクは個人が負うことになるのだ。その生きかたを選んだのは自分なのだから、その結果も自分の責任になる。

そういう自由な世界は、果たして「優しくて生きやすい社会」といえるだろうか。

何でもかんでも「自由が良い」と思っている人の気が知れない。個人が手に負えないようなリスクがある場合、規制による不自由でリスクが軽減されたほうが「優しくて生きやすい社会」でもある。

不自由すぎる社会もどうかと思うが、自由すぎる社会にも私は魅力を感じない。不幸な人が増えていくのは目に見えているからだ。「自由が認められる社会は、優しくて生きやすい」という認識は間違っているのだ。

邪悪な世界の落とし穴
『邪悪な世界の落とし穴 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナにおちる(鈴木 傾城)』

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