
独善的なワンマンが上に立って統治する組織では、組織の中でワンマンを脅かすほどの権威や才能や能力を発揮する人間は必ず排除される。これは別に珍しい話ではない。才能や能力があれば評価されると単純に思ったら大間違いで、逆に潰され排除される動きが発生する。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
能力があればあるほど危険人物
独善的なワンマンが上に立って統治する組織では、ワンマンを脅かすほどの権威や才能や能力を発揮する人間は必ず排除される。
人望や才能がある人間や目立つ人間は、独善的なワンマンに優遇されるのではなく警戒される。そこで生き残るためには、徹底的に忠誠を誓ってワンマンに尽くすイエスマンになるか、もしくは野心を持たないことが重要なスキルとなる。
中立であろうと思っても無駄だ。トップが独善的になればなるほど中立の人間すらも居場所がなくなる。イエスマンになることができない人間は、遅かれ早かれワンマンに煙たがられるからだ。
これは別に珍しい話ではない。才能や能力があれば評価されると単純に思ったら大間違いで、逆にトップや同僚やライバルなどに潰され排除されるのが世の常だ。
これは、どこの世界のどこの組織でも起きている。卓越した個人的才能でひときわ目立つと、それがずば抜けた才能であればあるほど、その世界で一定の地位を確保した既得権益者から「図々しい」「立場をわきまえていない」と思われて潰されてしまう。
才能があるのは素晴らしいことなのだが、同時に新しい才能は警戒の対象でもある。才能があればあるほど、そして能力があればあるほど、「危険人物である」と思われて蹴り出されてしまう。
特に日本の企業では年功序列の時代が長かったので、上司を凌駕するような能力を持っていると、その上司に警戒されて左遷される悲哀は日常茶飯事だった。
能力や才能や魅力を持った人間の誰もが成功するわけではない理由がここにある。彼らは既存の秩序を崩壊させる異端者として嫌われるのである。
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流されて生きている集団
革新的なビジネスプランを持った若い経営者は潰される。あまりにも超絶的な才能を持った人間も、業界から追い出される。今までの世界を覆すような斬新なアイデアを持った表現者も、やはり受け入れられるよりも排除されがちだ。
そんな超絶的なものでなくても、集団の中でただ単にリーダーシップを取ろうとするだけでも、「でしゃばっている」として、まわりから打たれたり、叩かれたり、妬まれたり、批判されたり、足を引っぱられたりすることがある。
組織や集団の中で既得権益を得ている側にとっては、能力や才能や魅力がある新しい人間は、自分の利益を奪う有害な存在に見える。「敵」なのである。組織内の微妙な序列のバランスを破壊するので、全員の敵と化すのだ。
この現象は「組織」だけでなく「社会」という広い枠組みの中でも生まれる。
たとえば、まだ何も成し遂げていない若者が「やりたいこと」を持ったとする。俳優になりたいとか、モデルになりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、そういう華やかなものであることも多い。
それを公言した瞬間、この若者は「流されて生きている集団」の中では異端児と化す。まわりに嫉妬を巻き起こしてしまうからだ。
「お前には無理だ」
「子供みたいなことを言ってないで普通に生きろ」
何もしないうちから、そのようなアドバイスをする人も出てくるだろう。それでも自分の望む道に突き進もうとすると、今度は「馬鹿な奴だ」と叩き始めるようになる。
前向きに可能性を追う人を叩くというのは、冷静に考えると不可解にも思える。しかし、彼のやりたいことが実現したら、何も成し遂げなかった自分が惨めになる。そう思うと、どうしてもそれに挑戦させまいと、足を引っ張る人が出てくる。
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いつしか本人まで「無理だ」と考える
何らかの能力や才能や魅力を持った人はたくさんいるが、ほとんどは開花しないで消えていく。まわりが、よってたかって才能を潰す。親兄弟や友人ですらも、理解者よりも反対者になる。
そんな現実に直面すると、多くの人は自分の才能を開花させるよりも、それを自分で殺して「今のままでいよう」とする。自分の才能の有無で、誰かと衝突するのは居心地が悪い。
そもそも、自分の能力や才能や魅力が開花する保証もない。挑戦して失敗して「だから無理だと言っただろう」と馬鹿にされ、嘲笑されるかもしれない。そんな目に遭うのなら、何もしない方がいいと思ってしまう。
何もしないで、社会や組織の中で漂うように生きていると、台頭はできないが叩かれることもない。楽だ。
人は往々にして楽な方に流されていく。「楽になれるのであれば、自分がやりたいことは忘れよう」「軋轢を生み出すのであれば、何もしないでいよう」と無意識に考える人が出てきても不思議ではない。
そして何もしない理由として、いつしか「どうせ私には無理だ」という考えを持つようになる。本人が自分を否定するようになる。
世の中には信じられないような才能を持っていながら、それを育てなかった人は限りなく多い。才能を発揮する前に潰されていったり、自分から才能を捨ててしまう。自分で「こんな才能は陳腐なものだ」と思っていたりする。
まわりがそのように思うように、忠告という形で「誘導」しており、能力や才能や魅力が潰されたのだ。
特異な才能であっても自分自身がそれを否定してしまい、「磨けば光るもの」を放置したあげくに捨て去るようなことをしてしまう。得意を捨てて苦手で生きるのだから、生きにくい人生になってしまうのは当然だ。
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「開花させる前に潰す」という醜怪な面
挑戦しても、現実の前に砕け散るかもしれない。結局は何もしなかったのと同じになるかもしれない。まわりに潰されるかもしれないし、社会に潰されるかもしれないし、組織に潰されるかもしれない。
人間社会は能力や才能や魅力を「開花させる前に潰す」という醜怪な面を持ち合わせている。だから、特異な能力や才能や魅力を持ちながら、最初からそれを捨ててしまう人が大半となる。
ときどき、思い出す女性もいる。
私は今まで、東南アジアの社会の底辺でいろんな女性と出会ってきた。彼女たちの中には、本当にたくさんの言語を知っていて、タイ語、クメール語、英語、フランス語と、次々と言葉を切り替えて、私を楽しませてくれる女性もいた。
「すごいね。通訳の仕事とかできるね」と私が言うと、彼女は「私はできない。学校に行ってないから」と答えた。しかし、彼女の才能は明らかに、どこかの大学を卒業した人たちを凌駕していた。
あるいは、身長が高くて、スラリとしていて、モデル顔負けのスタイルを持った女性もいた。彼女は私に「モデルになりたい」と言って、ホテルの部屋でいろんなポーズを撮って私を楽しませてくれた。
「オーディションは受けないの?」と聞くと、彼女は首を振った。「私よりもすごい子はいっぱいいるから」と彼女は言った。
みんなそれぞれ才能や魅力を持って、もしかしたらそれで自立できるのかもしれないと思ったが、彼女たちの多くは「わたしは無理なの」と言った。
本当は無理ではないのかもしれない。だが、彼女たちはその才能を発揮したくないと考えており、自分の持って生まれた才能を捨ててしまっていた。
本当は自分の中にある才能や能力を大事に、そして慈しんで育てて上げなければいけないのだが、自分自身が率先してそれを捨てていた。自分が社会に潰されることを考えて、傷つかないようにしているのだった。
誰かに相談しても、まだ何者でもない人間に対しては、だいたい「お前には無理だ」とアドバイスするだろう。そして、あきらめさせようとするだろう。
人は肯定的な意見よりも否定的な意見の方を強く認識してしまう癖があって、そういった否定を投げかけられると動揺し、無意識にそれを受け入れてしまう。そして今度は、自分で自分を否定するようになってしまう。
私が知り合った誰かが思い切って何かに挑戦して、大きな才能を開花してくれる可能性はゼロではないはずだ。もしかしたら道が開けるかもしれない。私は心からそれを願っている。

この醜怪な面の醜悪さは、底辺(ボトム)から何とか這いあがり自ら助かろうとする者を引き摺り下ろそうとするところに存分に発揮されているだろうと思います。
「蜘蛛の糸」の話では、もろともに糸にすがり昇らせてくれとすがる後の者たちをこれでは重みで糸が切れてしまうと蹴落とすよって「ぶち」と元から糸が切れるけれども、ええ、オノレだけ助かれば他のものなど知らんというのも十分醜悪だけれども、お前だけ助かるのは許さんというのは更に醜悪なように思って
だから、何というか…私はだめだけどどうかあなただけでも助かってくれ、いいから行け、行くんだ!という物語に(フィクションだろうとノンフィクションだろうと)号泣しちゃうんですよねえ私…
今の年功序列の日本企業がやる気のある若者たちを潰しています。
早く成果主義を導入して無能な経営陣、管理職たちはとっとと退出してほしいです。