ときどき、自分の心が日本にないことに気がつくことがある。
目を開けたままアジアの白昼夢を見ているのだ。日本にいても、ふと見かけたアジアの女たちだけを見ている自分に気がつく。
真夜中には夜の街にアジアの女たちを見付け、なぜ日本にいてもこれほどまでアジアに関わってしまうのかと、ひとりになると思わず苦笑いをしてしまう。
日本にいながら、女たちを通してアジアを流浪する。今日は中国を、明日はタイを……。
本当にアジアなしでは生きていけない。人生はアジアの女たちを中心にして回っており、心はアジアの大地から戻って来ない。心だけが身体を遊離して、ふらふらと多数の国をさまよっていく。
たとえば、日本で九月の残暑を浴びていると、その熱波がアジアの大地を思い出させて、懐かしいような、悲しいような気分になる。
以前、こんなメールをもらったことがある。
「ひとつの旅を終えて日本に帰り数ヵ月もすると、どうしても、また行きたくなってしまうのです。これは病気なのでしょうか。何度となく、もうこれで、最後にしようと心に決めて旅立っても、帰国後、社会復帰も十分にできないうちに、禁断症状に襲われる始末です」
この人の気持ちは分かる。まったく同じだ。きっと彼はさらに重症化するだろう。日本にいても不意に上の空になり、考えることはアジアの光景ばかりになる。そのうちに……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア タイ編』にて、全文をお読み下さい)

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