アジアの雨期は、身体を壊した人間にはとても辛い。昔は豪雨に当たろうが、泥の中に転がり落ちようが、まったく意に介さなかった。今はそうではない。
傘をさして歩くのもつらいし、道が薄い川のようになって排水溝に落ちていく中を歩くのはもっとつらい。濡れるのも嫌がるようになった。
あれほど雨期の売春地帯の想い出があって、多くの国で雨期を楽しんできたのに、今はスコールがやってくる前の湿った臭いを嗅ぐだけで、もう宿の自分の部屋に戻って、一歩も動きたくなくなってしまう。
無尽蔵の体力を持っていたときには天候がどうであっても気にしたこともなかったが、いったい何という変わりようだろうか。
東南アジアのスコールは突如としてやって来る。さっきまで晴れていたはずなのに、突然雲行きが怪しくなって、これは来ると思っていると、本当に底が抜けたのではないかと思うほどの雨が、一気に落ちてくる。
日本では雨は「降る」と言う。小さな子供が「雨が落ちてきたね」と言うと、母親が「降ってきたって言うのよ」と教えている光景も見たことがある。しかし、東南アジアのスコールは、「降ってきた」よりも「落ちていた」のほうが正しいのではないかと思う。
本当に、こんな大量の「水」がどうして空にあったのか不思議になるほど、それは大量に落ちてくる。昼間でも夜でも関係ない。気まぐれに、そして容赦がない。
タイ・パタヤのどこかのオープン・バーで女性とホテルに戻る途中も、いきなりものすごい雨にやられたことがあった。
ちょうどセントラル・パタヤあたりだったと思うが、しばらく雨宿りしているうちに、どんどん水かさが増して身動きが取れなくなった。
道の前も後ろも水没し、車道はとっくに浸水して歩道まで水が乗り上がろうとしていた。
「どうしようか」
そう私が言ったら、彼女は澄ました顔でこう言ったものだった。
「どうもしないわ」
雨宿りしているのに横殴りの風が強くてまったく雨宿りになっていない。しかし、他の人たちと一緒になって、じっと大雨の中に立ち尽くし……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきた売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア インド・バングラデシュ編』にて、全文をお読み下さい)

好いたお人と閉じこめられたやスコールに、などと呑気に妄想している場合ではないのですね。熱気と湿気でがっつりと体力を持っていかれつつ、あたると痛そうな大降雨、降るに追いつかない水はけ。
そんな中の「どうしようか」「どうもしないわ」、何だかとても素敵な会話だなあと思いました。
スコールに泣きべそをかいて日本に戻ってくることになるのだろうとおっしゃりつつ、傾城様はきっとまた飛んでいかれるように思います。鳥は飛び、魚は泳ぎ、風は吹くように。 aurore
タイでスコールに当たると大変。
まずタクシーに乗れない。
何とか頼んで乗せてもらっても料金が何倍にもなる。
町の中心でも水が膝上まで来るのでたまったもんじゃない。
病気も多発する気がします
auroreさん 詩人ですのぉ。
『 鳥は飛び、魚は泳ぎ、風は吹くように 』
私も傾城さんはまた舞い戻ると思います。
死ぬ前にどうしてももう一度あの豊饒の大地へ還ると思います。
多分、血湧き、肉踊り、胸が高鳴り、止められなくなるのだと思います。
毎日、毎時間、毎分、毎秒、片時も忘れることなくアジアのことを考えて想って生きてる人間がこのまま日本で野垂れ死ぬとは思えません。
1年以内いや半年程度で「またしばらくお別れです。」のアナウンスが入る方にBETします。
病身にムチ打ち、死期を早めようと煽っているわけではないですよ。。決して。。(笑