◆ブードゥーのパット。熱射病と、オープン・バーの人間模様

◆ブードゥーのパット。熱射病と、オープン・バーの人間模様

タイ編
シンガポールからバンコクに戻る日の朝、ひどく体調を崩して朦朧としていた。

身体はだるくて頭痛がする。以前、ニカラグアで熱射病にかかって3日3晩ベッドから起きあがれなかった時があった。症状はそれとよく似ていた。

しかし、もう航空券は取っていたので無理やり起きあがって空港に向かい、そのまま飛行機に乗り込んで何とかバンコクまでたどり着いた。

シンガポールで軽い熱射病に罹る

いつもはエアポートバスをのんびり待ちながら空港に出入りする人たちの姿を見ているのだが、この日はそんな余裕もない。タクシーに乗り込んで、スクンビット通りのホテルに行くように伝えた。

タクシーの中では案の定、運転手がマッサージ・パーラーのチラシを見せながら、「レディ」と言い始める。

しかし、客の気分が優れないのを知るとすぐにチラシを引っ込めて、「大丈夫か?」と心配してくれる。

「大丈夫じゃない。気分が悪い」と答えると、なぜか運転手まで蒼白になって、それからひと言も口をきかずに車を飛ばした。客が車の中で吐くのを恐れたのだろうか。

グレース・ホテルを少し行ったところでタクシーを停めると、すぐ近くにあった適当なホテルに入って部屋を取る。

部屋の中まで入ってきてテレビやエア・コンディショナーの説明をしようとする従業員に早めに出ていってもらい、それからベッドに倒れ込んだ。

恐らく軽い熱射病だと考えていた。

シンガポールで日本人墓地を訪れていたのだが、それが原因だろう。日本人墓地を長い時間散策し、その後は炎天下の中を足の向くまま歩いて高級住宅街を見学していた。

熱帯の猛暑の中、炎天下に2時間も3時間も歩き回っていれば調子を崩して当然だ。

ベッドに倒れてじっと時間をやり過ごしながら、これ以上体調がひどくならないことを祈った。熱射病では死ぬこともある。最近もアンコールワットを見学していた日本人が熱射病で亡くなったニュースが報道されていた。

ナナ・エンタープラザ

いつの間にか眠りに就いて、はっと目が覚めたのは夜中の12時過ぎだった。

体調は相変わらず最悪だったが、頭痛が抜けたのが唯一の救いだった。そして、同時に苦痛のピークが過ぎたらしいことを感じてほっとした。

もし、もっとひどくなっているようなら、日本に戻るまでずっとベッドでひとりきりだったに違いない。

体調は最悪だったが、空腹感はあった。何しろ飛行機の中で果物をかじったくらいで、一日ほとんど何も食べていなかったのだ。

耐えきれずに立ち上がって冷蔵庫の中を漁る。しかし、安ホテルの冷蔵庫で、めぼしいものが入っているはずもなかった。

水をガブ飲みして、これからどうするか思案した。とりあえず体力をつけ、空腹感を癒すために何かを食べたかった。そのためには、まったく気が進まないながらも外に出るしかない。

服を着替えてホテルから出る。向かったのはナナ・エンタープラザだった。泊まっていたホテルから近かったし、食事もできるし、女たちとも会える。

この期に及んで、やはり女たちのことが頭から離れないとは、どうかしてるに違いない。

ナナは相変わらず変わっておらず、元気のいい女たちと観光客でごった返していた。

いつもは胸のときめく瞬間だが、体力が極端に落ちていると、ナナの喧噪は刺激が強く、こちらを誘う女たちに反応する余裕など一片もない。

ゆっくりと向かったのは一階左奥にある屋台に毛が生えたような食堂だった。

ナナのバー・ガールたちは休憩が取れる時間になると、ここにやって来て慌ただしく食事を取り、慌ただしく持ち場に戻って行く。

乱痴気騒ぎの中で、ひとりで黙って食事

ゴーゴーバー「ブードゥー」は頭蓋骨が目印だ。そこの壁際に備えつけられた粗末な狭いテーブルで食事ができる。

女たちがいつも、何かを考えながら黙々と食べている姿をオープン・バーで何度も見ていた。ナナに向かったのは、それを覚えていたからだ。

しかし、まさか病気になってふらふらの時に、そんな機会が巡ってくるとは思いもしなかった。

炊事場の奥で切り盛りしている料理人の中年女性に炒飯(カオ・パット)を注文すると、待つまでもなく料理してくれた。

振り向くと壁横のテーブルは先客の女性が3人固まって食べており、座る場所がなかった。

肩をすくめていると、ブードゥーが出しているオープン・バーのカウンターの奥で、ひとりの女性がにっこりと笑いながらカウンターを指さした。

「ここに座って食べてもいいわよ」

こんな場所柄にもかかわらず、あまり化粧っ気のない小柄な女性だった。うなずいて女性の指さしたテーブルを有り難く借りる。

「飲み物は?」と尋ねられたので、ミネラル・ウォーターを注文した。

カウンターの片隅では太った白人(ファラン)が大柄の女性を抱きしめてビールを飲んでいる。

さらに向こうにはブードゥーの入口で酔っぱらった白人ふたりが、ひとりのタイ人女性を抱きかかえてふざけているのが見える。

こんな乱痴気騒ぎの中で、ひとりで黙って食事をしている日本人はとても奇妙なものだろう。

ふたりのパット

しばらく食べていると、うしろから肩を叩かれる。振り向くと、さきほどのカウンターに座っていいと言った女性だった。

彼女も食事の時間らしく、ご飯の上に炒めた野菜を載せた皿を手にしている。

「テーブルの方が空いたけど、こっちに座らない?」と彼女は英語で言った。

バーのカウンターで食べるのも落ち着かなかったので、テーブルの方に移った。

テーブルは先客の女性がひとりいた。少し太めの娘で、あまり美しいとは言い難かった。化粧っ気のない女性が、「彼女はパットよ」と太めの娘を紹介する。

パットという娘はひどく恥ずかし気にこちらを見たが何も言わなかった。後で分かったのだが、彼女はまったく英語ができず、それで気恥ずかしそうにしているのだった。

普段ならこれをきっかけに会話を弾ませようとするのだが、この日は小さな笑みを浮かべるのが精一杯だった。

ゆっくり食べていると、化粧っ気のない女性が「わたしの名前はパットよ」といたずらっぽく続けた。

さっき、太めの娘をパットだと紹介したはずだった。「セイム・セイム」と言うと、急に娘たちふたりは笑った。

「イエス。彼女の名前はパット。わたしの名前もパット。セイム・セイム」

「あなたは日本人なの?」と言われたので、そうだと答えた。

ほとんど自分から会話を持ちかけようとせず、何か言われてもうなずくか肩をすくめるかのどちらかで対応していたら、それが性格だと彼女たちは思ったらしかった。

しきりに話しかけてくる化粧っ気のないパットが、「食べ終わったらセクシー・ガールを見に行くの?」とブードゥーの入口を指さした。

そんな体力も気力もなかったので首を振った。女性の溢れるナナにやって来て女性に興味を示さない客に、パットはくすくすと笑った。

そして、「あなたは、もしかしたらあのレディが好きなんでしょ」と、うしろにひっそりと座っていた髪を長くした大柄なレディふたりに顎をしゃくった。

恐ろしいまでの厚化粧、大柄な身体、ストレートのよく手入れされた黒髪、ミニスカート……。

パットが何を言いたいのか分かってニヤリとした。彼らは明らかにレディ・ボーイだった。ガトゥーイ(性転換者)目当てじゃないのかとパットは冷やかしているのだった。

あなたに誘われればオーケーする

「いや、君が好きだよ」と英語で言った。そして、タイ語で”Pom rak khun.”(あなたを愛している)と冗談でつけ加える。

ふたりのパットは大笑いだった。食事を終えると、何か飲まないかと言われたので、「気分が良くないのでアルコールはいらない」と答える。

すると、コーヒーはどうかと聞かれたので、砂糖を入れない熱いコーヒーを頼んだ。

カウンターをはさんで向かい合った。パットはなぜか無口な客が気に入ったらしく、じっとこちらを見つめ続けた。

「あなたはわたしを愛していると言ったけど、わたし、シンガポールの彼氏がいるのよ。6ヶ月も会っていないけどね」

「それは良くないね」と答えると、「だから、わたしはあなたに誘われればオーケーするわよ。たぶん」

パットは意味深に笑いながらこちらの意志を確認する。普段なら、そのまま彼女を誘っているはずだ。

しかし、逡巡した。食事を取ってパットと話しているうちに気分も幾分良くなって来たような気もするが、女性を誘って火遊びするほど体力が回復していないのは自分が一番よく知っていた。

曖昧な態度を見せていると、オープン・バーがだんだん混んで来て、パットはあちこちの男たちのオーダーを聞き始める。

ひとりでやってきた男の客にはカウンターの奥で待機していた娘たちが四目並べの素朴なゲームセットを持ち出して、男たちの相手をした。

カウンターの向こうで、英語のできない太めのパットが白人青年相手に四目並べをしている。 男が太めのパットを打ち負かすと、彼女は声を上げて悔しがり、白人青年が大笑いした。

ふたりが目と目を合わせ、国籍を超えて笑い合っている姿を見ていると、言葉は通じなくてもこれが本当のコミュニケーションだと感じ、いつしか心が和んできた。

温かい笑顔や、優しい気持ちの交流、そして穏やかな空気。そういうものを感じる瞬間が好きだった。

ひとりでやって来るダンサー

ブードゥーのオープン・バーにひとりでやって来るダンサーも何人かいた。ガウンのようなものを羽織っているが、その下はビキニのままに違いない。

愛想の良い笑顔はそれぞれの店に置き忘れてきたかのように仏頂面で、何か深刻な面持ちである。

ダンサーはパットに一言か二言でオーダーを出して、やがて出てきたビールやジュースを自暴自棄に煽って黙りこくる。

ダンサーたちは店内ではやって来る男にとびきりの笑顔と親しさで接してくれる。しかし、ひとりで飲み物を煽っている時の姿には、そんな親しみなどは微塵もない。

気難しく、うつむきがちで、不快感を露わにして誰かに対して怒っているようにさえ見えた。それは決して店内の男たちには見せない表情だ。

笑顔の仮面で虚飾をまとうのに疲れたら、ひとりでオープン・バーにやってきて気持ちを整理して、再び職場に戻るのだろう。

男たちにとってゴーゴーバーとは、ただの遊び場にしか過ぎないが、女たちにとってはそうではない。

疲れていても、悲しいことがあっても、嫌なことがあっても、それを隠して男たちの機嫌を取らなければならない。

それが水商売・客商売の宿命だとは言え、やはりひとりで息抜きをしたくなる時があるのだろう。

ひとりでやって来る女性は、虚飾を捨てて、気持ちのままに怒りや疲れや不快感を剥き出しにしてうつむいている。

とは言え、ほんのわずかな間だ。

注文した飲み物を慌ただしく飲んだ後、彼女たちは再び「タイのほほえみ」を顔に貼りつけて、持ち場に戻っていく。

きっと、男たちに甘い笑顔を向けて、「タイの女性は親しみがあって美しい」と外国人の男を感激させるに違いない。

スネーク・ショー

いつだったかナナの3階にあるハリウッド・ストリップやハリウッド2に行ったことがある。

これらの店ではショーをやっているが、そのショーというのが理解できない性質のものであった。

ステージに上がったタイ女性が、自ら生きた蛇やカエルを自分の膣に押し込み、生きたまま押し出すという異様なものだ。

それを女性が男たちの目の前でやってのけ、男たちは声を上げたり黙りこくったりしながら一様に女性の膣の中でのたくっている生き物を凝視しているのだ。

初めてスネーク・ショーを見たときも、何ともやるせない殺伐とした気持ちになった。ショーを行っている女性の顔を確認せずにはいられなかった。

蛇が彼女の膣の中でうごめいている間、彼女は感情を一切捨てたような表情を浮かべて天井や床に眼をやっていた。

決して客を見ようとしなかったのは、きっと彼女は自分を見つめる男たちから喝采をもらおうとは思っていなかったからだろう。

もう三十路(みそじ)を過ぎ、容姿的にも美しいとは言えなかった。生きていくには、すべての羞恥とプライドを捨てるしかなかったのだろうか。

いずれにしても、喜んでやっているようには見えず、正視に耐えない悲しいショーではあった。

そんな悲しみを背負った女たちがもしこのオープン・バーにやって来たら、恐らく店内では決して見せられない不機嫌な表情を、ここで思い切り吐き出すに違いない。

ひとりきりでコーヒーを啜っていた

ゴーゴーバーで引っかけた女性を連れてやって来た男もいた。50歳過ぎの日本人だ。

女性をペイバーしたところまでは良かったものの、コミュニケーションに苦労しているらしく、ふたりの感情がまったく噛み合っていないということが見ていて分かった。

男はせっかくペイバーした女性に見向きもせず、カウンター奥のパットにビールをふたつ注文して、隣の娘にビールを押しつけていた。

娘は一口だけビールを飲んで後は退屈そうにまわりをきょろきょろと見つめている。

男は会話のできない困惑を隠すためか、もの凄いスピードでビールを飲み干してあっという間に空にしてしまうと、即座に立ち上がって娘と一緒に出ていってしまった。

いろんな男たち、カップル、女が入れ替わり立ち替わりやって来て、パットに飲み物を注文する。

パットは手際よく注文をこなして、やって来た客の人生模様にはほとんど無関心のように見えた。

客の前ではバーテンダーの仕事に徹するパットの姿は見ていて気持ちが良かった。ブードゥーは良い人材を見つけたものだ。

ひどく切なくなって、ひとりきりでコーヒーを啜っていた。

たまにパットがやって来て、いろんなことを質問したり、ささやいたりする。退屈させまいと気を遣っているのだろう。

「あなたはひとりでタイに来たの?」「あなたは奥さんはいないの?」「あなたは本当は女が嫌いなんでしょ?」

最後になる気がしなかった

コーヒーがなくなると、もう一杯お代わりした。パットはコーヒーを入れ直してくれて、カップを差し出す。

彼女は手を取ってきて、何かを訴えかけるような眼でじっと顔を見つめてくる。ペイバーを欲しているのは態度で分かったが、今回ばかりは期待に添うことはできそうにない。

「本当は君をペイバーしたいんだけど、今は身体の調子が悪くて疲れているからできない。明日、元気になったらまた来るよ。もし、俺がペイバーしたいと言ったら、君はオーケーかい?」

そんな意味のことを英語で言うと、彼女は答える代わりにそっと唇を差し出してくれた。軽く彼女にキスをした。

「わたしはセクシー・ガールじゃないわよ」

そう言う彼女に笑ってうなずいた。そして、長く座っていた席を立って、ゆっくりとナナを後にした。

翌日、少し体調は良くなったが本調子に戻ることはなかった。

昼間は一度用事があって外に出たものの、すぐにタクシーでホテルまで戻って、不本意ながらほとんどの時間を部屋で過ごす羽目になった。

夜になるとパットに会いに行きたくなったが、いまだペイバーできるような状態ではないのを考えて自制する。

翌日はもう帰国の予定である。今日会えないとなると、次にパットに会うのは数ヶ月先のことだろう。

ベッドの中で不快な倦怠感や悪寒に顔をしかめながら、今度バンコクに来たときは真っ先にパットを誘ってみようと考えていた。

その今度がいつになるかは分からないし、そのときにはパットがブードゥーのオープン・バーからいなくなっているかもしれない。 しかし、パットとはこれが最後になる気がしなかった。

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