日本でメイドの恰好をするのが流行っていた頃、私はフィリピンで本物のメイド出身の女性と知り合っていた。中東でメイドをやっていた女性だ。
メイドというのは、他人の家に住み込み、料理を作ったり後片付けをしたり、部屋を片付けたりする仕事である。可愛らしい服装がどうしたという前にそれはとても重労働であり、多くの国では「金で雇った奴隷」としか認識していない。
しかも、若い女性が見知らぬ家でそういった仕事をするのだから、とてもセクハラに遭いやすく、レイプされても虐待されても泣き寝入りになる危険な仕事でもある。
そんな「奴隷」「使用人」の仕事であるメイドが日本では流行っているが、ちょうどその頃に知り合ったのがジーナだった。ジーナはサウジアラビアに出稼ぎに行き、二年間メイドの仕事をしていたのだった。
フィリピン・マニラの売春バー『LAカフェ』の交差点を渡ってマビニに向かう途中に、アラブ人向けの料理店がある。
マニラにいるときは、気が向いたときにそこで食事をとってからLAカフェに向かっていた。当然だが、ここにいるのは、ほぼ全員がアラブ人だ。
彼らはよくしゃべるので、店はいつも喧噪の中だ。仲間とチェスをし、食べ、飲み、この狭い空間の中で大いに人生を満喫しているように見える。よく見ると、全員男であるのは、彼らの社会をそのままそこに映し出しているからなのだろう。
たまに彼らはウエイトレスを呼んで、いろんなものを注文するのだが、驚いたことに、ここのウエイトレスは簡単なアラビア語が分かる。
フィリピン人は日本に出稼ぎに行けば日本語を操り、中東に行けばアラビア語を操るようになる。植民地と出稼ぎの長い文化が、さまざまな言葉を違和感なく受け入れる民族へと変貌させたようだ。
私は、たまにここで……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきた売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア フィリピン編』にて、全文をお読み下さい)
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