「1日でも1分でも1秒でも長生きした方が幸せ」と人生を考えるのは浅はかだ

「1日でも1分でも1秒でも長生きした方が幸せ」と人生を考えるのは浅はかだ

老いていなくても、何らかの不治の病、何らかの精神的な疾患、何らかの事情で、本人が死にたいと思うほどの困難で第三者が見ても生きている方が苦痛であると認識される場合、「死の選択」はあって然るべきではないのか。確かに生命は大切だ。思いつきで死ぬのは馬鹿げている。しかし、生きることに対して多大な苦しみしか生まない人生もあるわけで、そういう人たちに対しては「死」という選択肢があることは救いではないのか。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

基本的には74歳で死ぬ

私は別に今すぐに死にたいとは思っていないが、生に対してはそれほど執着もしていないので、無為に長生きしたいとはまるで思わない。以前も書いたかもしれないが、私は74歳くらいで死ぬ予定だ。

もちろん、病気や事故や予測しない何かで74歳よりも早く死ぬかもしれない。そうであれば別にそれでもいい。また74歳になっても、多少の「字余り」くらいは生きるかもしれない。それも別にいい。

しかし、80歳にも90歳にもなって生きるつもりはまったくない。基本的には74歳で死ぬ。そういう決心をしている。

一般的に言えば人間の健康寿命が切れるのがだいたい74歳くらいだ。今でさえ、あれこれガタが来ている私の身体は、それ以上長生きしても真夜中のストリートをフラフラすることはできないだろう。フラフラするどころか、下手したら身動きすらおぼつかなくなるかもしれない。

誰かの世話になりたいとは思っていない。仮に無理やり老人ホームみたいなところに入れられたら、絶対に当日の夜に脱走する。もし逃げられないというのであれば、放火する。

私は小学校の頃からずっと集団生活に馴染まなかった。今でも「絶対に何があっても集団生活なんかしない」と思うほど集団生活が嫌いだ。生活を指図されたくない。仮に間違えて刑務所に行ってしまったら独房でいい。それくらい集団生活が嫌いだ。

私は真夜中になったら「ねぐら」から這い出して、真夜中の街をほっつき歩くのが好きなのだ。健康寿命を失って、それができなくなったのであれば、その時点で私は生きている意味を喪失する。未練は、ない。未練なんかあるわけがない。

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「無理やり生かす」というのは行き過ぎ

人間以外のすべての生命は、足腰が立たなくなり、自分でエサを取れなくなった時点で死ぬことが確定する。死ぬ前まで生き残ることに全力を尽くすが、いよいよ駄目になったら誰も延命治療などしてくれないのだから必然的に死ぬ。長生きしたいと思っても叶わない。

人間社会は違う。人間は社会制度として長生きしたいと思ったら、それが許される社会を作り出した。それはそれで素晴らしいとは思う。

しかし、老いて、身のまわりのことが自分で何もできなくなって、もうそろそろ死んでもいいと思っている人がいても、そういう人を無理やり生かす。それは、行き過ぎではないかと思っている。

まして不治の病気になって衰弱して本人も死にたいと思っているのに、無理やり生かされるというのは虐待というしかない。「尊厳を持って死にたい」という人がいたら、最後にそれを叶えるのが本当の医療のあり方ではないのか。

私は、65歳以上の高齢者にはすべて「万一のことがあったら、尊厳死を選ぶか可能な限り生きる方を選ぶか」を選択させる決断書を書かせて、本当に万一のことがあったら、その決断書に基づいて医療を選択する形にすべきだと考えている。

命の選別は、他人がするのではない。自分がする。どの時点で尊厳死するのかも自分自身で選ぶ選択肢があったら素晴らしい。

「どんなことになっても死にたくない。生かして欲しい」と思う人がいる一方で「末期の病気になって最終的に意識もなくなったら、さっさと死なして欲しい」と思う人もいる。

本人が「死なせてくれ」と言っていたのに、莫大な医療費をかけ、家族にも大きな精神的負担をかけ、本人の肉体も人間的には死んでいるが生物学的には生きているような状態で生かされ続ける状況は異常だ。病院は儲かるかもしれない。しかし、それは病院による拷問である。

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「死の選択」はあって然るべきではないのか

日本人は「死」について、あまりにもナイーブに考え過ぎではないのか。確かに「すべての生命は大切」だというのは間違いない。しかし、それと「すべての生命はありとあらゆる手段を使って生かすべき」というのは同じなのだろうか。

私はそうは思えない。

老いていなくても、何らかの不治の病、何らかの精神的な疾患、何らかの事情で、本人が死にたいと思うほどの困難で第三者が見ても生きている方が苦痛であると認識される場合、「死の選択」はあって然るべきではないのか。

確かに生命は大切だ。思いつきで死ぬのは馬鹿げている。しかし、生きることに対して多大な苦しみしか生まない人生もあるわけで、そういう人たちに対しては「死」という選択肢があることは救いではないのか。

誰でも「もし自分がこんな状況になったら死んだ方がいいかもしれない」という状態をいくつか思い浮かべられるはずだ。場合によっては、死を選ぶことに第三者の同意や共感を得られる状況のこともあるはずだ。

世の中は平和ではない。残酷な出来事の犠牲になる人もいる。

時には人間として尊厳を保てない状況になり、なおかつそれが回復不能であり、自分自身も死にたいと思っている場合、死を選ぶというのは逆に「安堵」や「救い」となることもあり得る。

死は必ずしも「地獄」ではなく、むしろ生きていることが「地獄」である場合も、世の中には皆無ではないのだ。

「誰でも死にたければ死ね」と言っているわけではない。客観的に見ても、生きることが拷問に等しい状況においては、生き続けることが拷問になり得るので、そんな場合は「死」という選択肢があってもいいのはないかと言っている。

想像を絶する苦しみの中で「死」を求める人に、「痛みもなく、苦しみもなく、きれいに、静かに、平和に、安らかに死ねる」という選択肢があれば、誰が考えてもそれは「救い」であるというのが分かる。

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寿命の長い短いは単なる結果でしかない

やりたいこともせず、大して充実した経験もなく、何もしないまま歳を取り、苦しみでいっぱいで不安しかなく、それでいて長く生きている人は幸福なのだろうか。

逆に、やりたいことをきちんとやり、燃えるようなワクワクするような時間をたっぷりと味わい、時にはスリルを味わい、時には挫折も味わい、生きている実感を身体いっぱいに味わって、太く短く生きで死んでいった人は不幸だったのか。

「1日でも1分でも1秒でも長生きした方が幸せ」と考えるのは浅はかだ。人生は最も長生きした人間が勝ちという数字を競うゲームではない。つまり、長寿が幸せで、短命が不幸ということにはならない。

寿命の長い短いは単なる結果でしかない。人生100年時代とは言うが、100年間みっちりと充実した人生を送れる人もいるが、人生50年でも大きなことを成し遂げて十分に濃密に生きた人もいる。

寿命の長さは結果であって、それ自体は競うものでも何でもない。重要なのは「1日でも1分でも1秒でも長生きする」ことではなく、「1日でも1分でも1秒でも充実した時間を過ごす」方である。

長生きすることよりも、充実した人生を送る方に主軸を置いた方が絶対に良いに決まっている。人間はどのみち老いると体力はなくなり、身体はボロボロになり、判断能力も鈍り、何もできなくなっていくのだから、むしろ生き急ぐ方が逆にいい。

生き急いで、でも生き残って、長く生きてみたら愉快なのでもっと生きようと思うのであれば、それもひとつの選択だ。まったく問題ない。80代を超えても愉快に幸せに生きている人はたくさんいる。

しかし、別に長生きしたいとも思わないし、健康寿命を失ってどうしようもなくなったら、さっさと「おさらばする」というのも選択肢としてあってもいいと思わないだろうか。

私は以前から言っている通り、どんなに長くても74歳くらいで十分だと計算している。それ以上は特に必要はない。ちなみに、死ぬ年齢が決まっていたら資産も逆算して減らしていけるので便利だ。

死ぬ年齢があらかじめ分かっているのは、合理的だという側面もある。

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