日本人が「多文化共生は暴力を増幅する装置である」と気づいた時はもう手遅れ
多文化共生では対立が発生するのは避けられない。にも関わらず、日本政府はまったく「多文化共生」を止めようとしない。それが何をもたらすのか考えることもせず、ひたすら外国人を日本に連れてきて定着させようとしている。日本社会が荒廃するのは避けられない。(鈴木傾城)
多文化共生では対立が発生するのは避けられない。にも関わらず、日本政府はまったく「多文化共生」を止めようとしない。それが何をもたらすのか考えることもせず、ひたすら外国人を日本に連れてきて定着させようとしている。日本社会が荒廃するのは避けられない。(鈴木傾城)
何らかの組織に属している人は、ひとり残らず意見の相違や分断や内部抗争に巻き込まれる。仲間から裏切られることも普通にある。誰ひとりとして、この醜悪な世界から逃れられない。それが人間社会の「常態」なのだから、仕方がない。それならば、いったいどうしたらいいのか。(鈴木傾城)
異民族は自分たちの民族とはまったく違う存在である。相互理解が難しく、ストレスが溜まるケースが多くなり、相手の激しい自己主張に接するようになっていくと、遅かれ早かれ衝突が避けられなくなってしまう。それが欧米の多文化共生の現場で起こっていることだ。(鈴木傾城)
外部から外国人を大量に連れてきて、「さあ共生しろ」と国民に強制するやり方がうまくいくわけがない。うまくいくわけがないから、多文化共生はこれほどまで社会を荒廃させているのである。やり方があまりにも乱暴過ぎて狂っているとしか思えない。(鈴木傾城)
今の時代は、時代が時代であれば「聖人」ともあがめられるようなローマ教皇みたいな立場の人でさえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。(鈴木傾城)