インド。極度の混沌(マサラ)が生み出す至福のものとは?

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2018年3月9日から11日までの3日間、インド・マハーラーシュトラ州のナグプールでヒンドゥー教徒保守派の文化保護のための会議が開催されていた。

そこで大きな警鐘が鳴らされていたことがある。

それは、小規模な共同体の中で話されている少数言語が話者の減少により次々と「絶滅」していることだ。最近のインドでは「英語」が爆発的に好まれる言語となっており、インドの少数言語はまったく顧みられることがなくなった。

そのため、このままではインドは英語とヒンドゥー語のみが影響力を持って、他の重要な言語、たとえばカンナダ語、マラヤラム語、タミル語、テルグ語までもが衰退していくのではないか、と危機が叫ばれている。

グローバル化がインド社会に入り込むことによって、人々はより話者の多い言語を覚え、話し、日常的に使うことになるのだが、その結果として話者の少ない言語はどんどん侵食されて話されなくなっていく。

インドでは「ヒンドゥー至上主義者」が「インド文化を守れ」と声を上げているのだが、表層的な部分だけでなくインド古来から話されてきた言語の保護にも目が向いている。

なぜか。言語が失われれば歴史の連続性が消えてしまい、過去と未来が分断されてしまうからである。そのため、どんなに少ない話者の言語であっても、それは大切なものだという意識を強烈に持つ人も存在する。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

中身が違うものが集まってひとつになっている

インドのそれぞれの言語は、お互いにまったく通じない。

ドラヴィダ語から派生した言語であるというのは同じでも、単語から発音から文字まで何もかも違うので外国語と同じなのである。そんな言語がインドには数十種類も存在している。

インドがどれだけ混沌としているのかは、ヒンディー語、英語以外の公用語を見れば分かる。

アッサム語、ベンガル語、ボド語、ドーグリー語、グジャラート語、カンナダ語、カシミール語、コーンカニー語、マイティリー語、マラヤーラム語……。

マニプル語、マラーティー語、ネパール語、オリヤー語、パンジャーブ語、サンスクリット語、サンタル語、シンド語、タミル語、テルグ語、ウルドゥー語……。

これ以外にも500万人以上の人々に話されている言語が16種類ほどある。すさまじい環境であることが分かるはずだ。

こういったものをすべて1つにして、「インド」というラベルを貼った国が、インドである。インドと言っても、中身が違うものが集まってひとつになっている。

当然、インドはまとまらない国だ。主義主張はあまりにも多く、多彩で、入り乱れている。そもそも、言葉すらも通じない。世界も違う。

そうであれば、話されない言語は消えて、話者の多い言語に統一した方が言葉も通じるようになっていいのではないかと日本人は思う。

しかし、そう考えないのがインド人でもある。混沌こそがインドなのだと考えるのである。

インドは単一ではない。混沌だ。人種も、言語も、文化も、思想も、宗教もなにもかもが「まったく違う」ものが寄り集まり、せめぎ合い、共存し、反発し、ひとつの世界をかたどっている。本当に何もかも違う。

だから、日本を見るのと同じ目で、インドが「一国一文化」であると思って見ていると、まったく分からない国になってしまう。インドは完全なる「一国多文化」だ。

 

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知性と無学、凶暴と慈愛。その両極端が実に尖った国

インドは、世界でも有数の知的レベルを持ったハイテクに強い人材を莫大に抱えている。

その知性は、グーグルのCEO(最高経営責任者)であるサンダー・ピチャイ氏や、マイクロソフトCEOのサティア・ナデラ氏を見ても分かる。インド人の知性は、世界最高峰であると言っても過言ではない。

一方で、インドには完全完璧なまでに無学で、野獣のように粗暴な人間が何億人もいる。文字も読めず、計算もできず、野良仕事に従事し、犯罪を犯し、女性にアシッド・アタックするような残虐な人間がいる。

かと思えば、生き物すべてを敬い、虫すらも殺さない完全菜食主義のジャイナ教を信奉するような優しい人たちも莫大に抱えている。すべてを許し、いたずらな少年を包み込む母のような寛大な心を持った人たちがいる。

インドには売春地帯があちこちに存在していて堕落した男も大勢いる。しかし、その一方で完全に禁欲してしまった瞑想者や、享楽を悪とする仏教徒も莫大に抱えている。

美意識ですら違う。太っている女性が美しいと思い込んでいる人もいるし、痩せている女性が美しいと思い込んでいる人もいる。日本人と同じように質素であることが美しいと考える人もいれば、豪華絢爛こそが美しさの極みと思う人もいる。

知性と無学、凶暴と慈愛。その両極端が実に尖っていて、標準に収まらない。言葉や文化だけでなく、人間の素質まで混沌なのがインドなのだ。

インドには、極端なものがすべて同時に存在して、完全に混沌としている。カレーの中には多くの種類のハーブ(香辛料)が混ぜられてそれがひとつの味を醸し出す。インドではこれを「マサラ」と呼ぶ。

インド社会は、まさにいろんな「違うもの」がひとつの鍋の中に詰め込まれた「マサラ」なのである。こんな国だから、インドとはいったいどんな国なのだとイメージがつかめずに悩む人がいてもおかしくない。

小説『コルカタ売春地帯』。インドの最底辺とその時代背景
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饒舌の文化インドで、こんな経験をするとは……

インドはハードな国だ。私は最初、あの猥雑さと混乱と喧騒に、とても馴染めなかった。インドには何度行ったのか分からないが、今でも馴染めているのかどうかよく分かっていない。

貧しい人たちの必死の生き様に巻き込まれたりすると、それだけで精根尽きるような疲労感を感じることも多い。いつだったか、知り合ったインド女性と話をしていたことがあった。

彼女の口調は、一方的で、激しく、そして確信的だった。それが、延々と続く。それは、もはや閉口を通り越して、困惑すら感じさせるものだった。

彼女は英語に堪能というわけではない。

単語にヒンディー語が混じり、かつ、インド独特の「r」まで発音する単語読みや、インド独特のイントネーションも、すべて混じっていた。

流暢な英語も途中で何を言っているのか分からなくなるが、あまりにローカルな英語もまたつらい。集中力が途切れると、途中から完全に意味が取れなくなる。

しかし、その饒舌さにもう聞き返したり内容を把握しようとする気力すらもなくなってしまう。だから、インドを出るときはいつも疲れ果てていた。

饒舌は、大部分のインド人に共通するところがある。

しかし、まったくその逆に、言葉が話せないのではないかと思うほど寡黙な人の存在もあった。

私が好きになったムンシガンジの売春地帯の女性は、自分から私に何かを問いかけることはいっさいなく、言葉を話さないことが美徳であるかのように沈黙の中にあった。

それでも彼女が私を好んでくれているというのは、私のそばにじっと座って見つめてくれたり、食べ物を持ってきてくれたり、水を飲ませてくれたりすることで深く伝わった。

何も言わないのに、これほど気持ちが通じ合うという経験はそうザラにない。まさか饒舌の文化インドで、こんな経験をするとは誰が想像しただろう。インドには、そういう人もいるのである。本当に一筋縄ではない国だ。

インドという国は「放浪者の麻薬」である

常に両極端なものが存在するから、その両極端がたまらなく面白い。そもそも、インド人が信奉する神まで混沌としている。

インドで美と豊穣の女神パールバティなどは、まさにインドを象徴している神だ。インドの混沌を思い出すときは、いつも女神パールバティを思い出す。

パールバティは、美の象徴だ。しかし、怒ると凶悪な神ドゥルガーに変異する。さらに怒髪天を衝くような怒りにとらわれると、もはや地球をも破壊してしまうような真っ黒な異形神カーリーとなっていく。

美の象徴が、凶悪と破壊の象徴と結びついている。

美が割れると中には凶悪が入っており、それが高じると、さらに割れて中の破壊神が出てくる。美しさと凶悪さが同居している。このあたりがインドらしいと感じたりする。

インドは何から何まで極端だ。猥雑で、混乱している。しかし、それが一種の無法地帯のような自由さを醸し出して、中毒のような気持ちを生み出す。

私がインドに疲れると思いながら惹かれてしまうのは、混沌さが生み出している「極度の自由さ」がそこにあるからではないかと思っている。

日本は単一民族の国であり、単一文化であり、その単一性が秩序と規律を生み出している。社会規範がはっきりとしており、ルールも明快で、治安も良い。それは良いことなのだが、行き過ぎると「自由」が失われる。

インドは多民族であり、複合文化であり、それが無秩序を生み出している。しかし、その混沌とはギリギリまでの自由度が認められているということでもある。

自由……。

極度の混沌(マサラ)が生み出す至福のものとは「自由」だったのだ。一度、この自由を味わうと、それは麻薬のように作用する。だからインドに沈むとインドから離れられなくなるのである。

インドは麻薬だ。一度でもとらわれると、もう二度と逃れられない。インドという国そのものが「放浪者の麻薬」にもなっている。中毒になってしまって、一生インドがつきまとう。(written by 鈴木傾城)

私が好んで沈んでいたムンシガンジのスラムは、バングラデシュからの移民も大勢いた。彼らはヒンドゥー教の国の中のイスラム教徒である。少女もジルバブをつけている。ベンガル語を話すイスラム教徒の少女も、もちろん「インド人」である。
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