どのような社会システムを作ったとしても、裏で必ず「弱者」を用意しているのが人間の歴史である。この現象は、為政者が意図的に作り出したというよりも、動物としての本能が自然と作り出した可能性が高い。動物社会では弱者が積極的に作り出されている。理由があるのだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
金のない人間は劣った存在であると見なす社会
インドにはカースト制度(身分制度)がある。カースト制度には「カーストにも入れない穢れた人間」という存在があって、そういった人たちをダリット(不可触民)と言って公然と差別してきた。(ブラックアジア:ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと)
かつて、世界では人種差別主義が色濃く残っていて、アメリカでも「黒人は劣っている」として激しい排斥と差別の対象とされてきた。(ブラックアジア:アメリカの「差別の時代」を生きたひとりの女性歌手のこと)
アフリカでは部族間闘争が今でも続いている。それぞれの部族が相手部族は「宿敵である」と見なしていて、部族闘争で征服すると、相手を皆殺しにして若い女性を「奴隷」として一段下の人間として扱う。(ブラックアジア:中央アフリカ。国際社会から見捨てられ暴力地帯と化した国)
民族間でも、「あの国の民族は劣っている」「あっちの文化は劣っている」と激しく対立し、軋轢は絶えることがない。
このこのような状況を見ると、資本主義で生きる人々は、「未開の人間の世界の話」と考えてしまうかもしれない。しかし、資本主義には資本主義特有の「差別」「身分制度」があることに気づく必要がある。
資本主義の世の中では、金を持っている者と持っていない者を区分けして、金のない人間は「劣った存在である」と社会全体が無意識に見なして、さげすむ環境ができあがっている。
金のない人間は弱者であり、排斥されたり、差別されたりする。そして、場合によっては、まるで「奴隷」のごとく粗末に扱われたりする。未開の世界と変わらないのだ。
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裏でかならず「弱者を用意」する社会
人間社会はつねに「弱者」を求めている。近代に入って、弱者を作ってはいけないという平等主義が生まれたが、この平等主義は建前のようになっている。きちんと機能していない。
どのようなシステムを作ったとしても、裏でかならず「弱者を用意」しているのが人間の歴史である。
「社会は弱者を必要としている」のだ。信じられないかもしれないが、客観的に人間社会を見つめると、どうしても最後にはそこに行き着いてしまう。
この「弱者を作る」という現象は、為政者が意図的に作り出したというよりも、動物としての「本能」が自然と作り出した可能性が高い。
幼稚園でも、小中学校でも、ひとつのクラスができると、すぐにいじめられる子供、すなわち「弱者」が生まれる。部活動でも、何でも同じだ。分別のあるはずの大人の社会でも、そこに集団生活があれば、いじめられる存在が自然と作り出される。
誰が意図するわけでもない。自然に弱者が作り出される。
集団がかならず弱者を作り出すというのが本能だとすれば、それはいったいどのような意味があるというのか。
実は、集団ができると弱者が作り出される現象は、人間だけにあるわけではなく、動物界でもしばしば起こり得る現象である。集団があると、その中で弱い存在が作られて、徹底的にいじめられる。
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仲間内の一番弱いものをいじめる
群れる魚集団でもそうだ。まず、いじめられる存在が作られる。いじめられる魚は、集団で物理的な攻撃(いじめ)に遭って弱らされる。
熱帯魚のディスカスという魚があるのだが、この魚も水槽の中で一番弱い個体に対して、非常に激しい「いじめ」をする。物理的に攻撃して、弱い存在をさらに弱らせていく。
しかし、このディスカスというのは獰猛な魚であるというわけではなく、他の種類の魚を攻撃するようなことはない。あくまでも「仲間内の一番弱いものをいじめる」だけなのだ。
シマウマや、サルの世界でも、極端ではないにしても、そういった傾向はある。仲間のうちの誰かを、物理的にいじめて「弱者」に仕立て上げていく。実は、動物界にとっての「弱い者いじめ」は、自分が助かるための戦略である。
動物の世界では弱肉強食だ。生物は、より大きな生物に襲われて、エサにされてしまう。逃げられなければ、自分が食べられてしまう。そういった緊張感の中で、群れる動物は生きている。
群れるのも一匹でいたら弱いからだ。だが、群れてもまだ心配だ。では、どうすればいいのか。捕食者に襲われて、いっせいに逃げるとき、自分よりも足の鈍い個体がいてくれれば自分が助かる。
捕食者は弱って動きの遅い個体を選べば狩りが成功しやすいので、つねに弱い個体を狙ってくる。ということは、群れの中で「弱い個体」を用意しておけば、自分が助かるのだ。
ここに「弱い者いじめ」が本能になる意味がある。
集団の中で弱い者を作り出しておけば、そちらが犠牲になってくれるので、自分が生き残れる可能性が高まる。つまり、集団の中で弱者を作っておくというのは、切実なサバイバルの一種だった。
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弱者をスケープゴート(犠牲)にする
人間も、文明が発達する前は長らく危険な動物に捕食されていた。人間も猛獣のエサの対象だったのだ。だから、かつての原始社会では人間も弱い者を用意して、弱い者からエサになってもらっていた可能性が高い。
弱者は、自分よりも劣れば劣るほど都合が良い。だから、徹底的に弱らせるために、「いじめ」を繰り返して心身共に衰弱させていく。
(2)自分よりも弱い者がいる必要性が生まれる。
(3)積極的に誰かをいじめて弱い存在にする。
(4)弱い者を作ることによって自分が助かる。
石器時代だけの話ではない。現代も形を変えてそれは存在している。たとえば学校でも「先生」という絶対的権威の人間がいて、生徒たちは捕食(叱咤)されたくない。つまり、絶対的権威に目をつけられたくない。
だから、群れ(クラス)の中の誰かをいじめて弱い存在にして、この弱い人間を目立たせて自分は群れに埋没して生き残ろうとする。
会社でも、学校でも、ありとあらゆる組織はそんな無意識の集団心理が働く。だから、世の中から「弱者」が消えない。動物の無意識が弱者を求めている。弱者をスケープゴート(犠牲)にして自分が助かりたい。
弱い者がいなければ、自分が弱い者にされるかもしれない。それは人間にとって死に直結してしまうほどの恐怖なのだ。自分よりも弱い人間がいなければ、自分がスケープゴートに仕立て上げられる。誰にとっても、これは恐怖だろう。
「いや、自分は強いし、絶対に弱者にならないから大丈夫だ」と思っている人はいないだろうか?
そんなことはない。人は誰でも病気になるし、ケガをするし、年老いる。判断力も鈍る。金も稼げなくなる。今は強くてもいずれ強くなくなる。誰でも、100%確実に弱者になり得る。だから、弱者の問題は他人事ではないのだ。
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