激情の愛が消えたからと言って関係を捨てるのは合理的か?

激情の愛が消えたからと言って関係を捨てるのは合理的か?

愛は永遠ではない。なぜなら人の感情や趣味や好みは一定ではないからだ。人は変わっていく。だから、私は「永遠の愛」なるものを一度たりとも合理的だと思ったことはない。

恋に落ち、燃え上がるのは簡単だ。しかし、愛し続けるのはとても難しい。暑い季節はやがて消えるのだ。激情の愛が消えると、やがて相手の存在が日常化し、感動は冷める。愛の寿命は4年だという人もいる。

相手の存在が日常化すると、今度は心のすれ違いがとても多くなっていく。なぜなら、人にはそれぞれ自分の考え方があり、誰にでも欠点があるからだ。

愛が燃えているときは見えなかったものが、愛が冷めるとよく見えるようになる。

人は誰でも生まれも育ちも環境も違う。同じ民族であっても、考え方、感じ方、大事にしているもの、譲れないものはまったく違う。

人は完全に一致できないが、せめて「基本的な部分」は一致していないと互いに愛し続けることはできない。そして、もう無理だと思ったとき、愛は壊れ、愛は死ぬ。

では、男と女は愛が冷めたら別れた方がいいのか。私はそれも合理的ではないと考えている。なぜなら、人は「愛以外の結びつき」というものがあるからだ。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

平凡な日常をふたりで築けるかどうかが大きな問題

激情の愛が消えたとき、淡々とした平凡な日常をふたりで過ごせるかどうかが大きな問題となっていく。そのとき何が必要なのか。

それは、信頼、親近感、いたわり、助け合い、共有している想い出、支え合い、その人への慣れ、人間性などだ。一緒にいて安心できるかどうか、一緒にいて自分らしさが損なわれないで済むかどうかが愛よりも大切になってくる。

もちろん、人間だから行き違いもあればちょっとした対立もあったりする。いつでも互いに相手を思いやり、互いに相手に配慮するのは理想だが、世の中はそう簡単にいかないのだ。

毎日毎日いろんなことが起きて、その度に相手と自分の考え方や感じ方の違いが生まれる。どうしても相手に受け入れて欲しい考えや習慣を、相手が踏みにじることもある。

逆に相手から自分の考え方や行動を変えるように圧力を加えられたりすることもある。誤解もある。話し合うことも必要だが、その話し合いすらも成立しない場面も生まれてくる。

許せない仕打ちをされることもある。あるいは、自分が相手にひどい仕打ちをしてしまうこともある。長い年月の中で、自分や相手の人間性が悪い方向に変わってしまうこともある。

誰かと一緒に暮らしていると、どうしてもそういった深刻な危機がいつか訪れる。

そうやってすれ違いが鬱積する中で、相手を罵ったり、暴力を振るったり、帰ってこなくなったりすることもある。すっかり諦めて相手に無関心になってしまう人もいる。

そして、「一緒にいるべきか」「別れるべきか」を問われるようになっていく。

違っているものを合わせる。相手の欠点を受け入れる。それができるときもあれば、できないときもある。問題が改善できなければ別れることも珍しくない。

愛が続くのは皮肉なことに「自分と同質の人」

真夜中の世界は愛がなくても男女が簡単に結ばれる場所だ。セックスはビジネスであり、互いに相手を愛しているように見えても、それは「疑似恋愛」でしかない。

しかしそんな殺伐とした現場でも、なぜか相手に惹かれ、互いに別れがなごり惜しく感じることがある。「彼女を離したくないな」「もっと一緒にいたいな」と思う相手が不思議と出てくる。

ストリートで出会った刹那的な関係は金で物事が決まる。金を介在させるのだから互いに愛など感じる必要がないのに、それでもいつしか惹かれ合うことがある。

人の心の動きは、とても不思議なものだ。

なぜそんなことになるのだろう。私の身に起きた出来事を振り返ってみると、相手の感受性と自分の感受性が似ており、自分が求めている反応と、相手の反応が合致したときに、その「引き合う気持ち」が生まれていることに気づく。

人は往々にして「自分と違う人」に惹かれる。しかし、関係が続くのは皮肉なことに「自分と同質の人」なのである。いろんな部分で自分と相手が同質であればあるほど、うまくいくというのが私の経験則だ。

そんな目で見回すと、大部分の人間は「同じ人種」「同じ国」「同じ年代」「同じ趣味」「同じ宗教」「同じ階級」で結びつき合うことが多い現象があることを確認することになる。

流れ者は時として魅力的だ。異邦人に惹かれる人も多い。しかし大多数の人は最終的に、同じ民族の、しかも自分のそばにいてくれた人と結びつく。

人種の坩堝ニューヨークでも、白人は白人と結ばれ、黒人は黒人と結ばれ、ヒスパニックはヒスパニックと結ばれることがほとんどである。

そして、日常生活は同質な人と一緒に暮らしたいと考えるので、街は放置しておいてもきれいに分離し、白人街、黒人街、ヒスパニック街と分かれる。この分離こそ、人が同質に惹かれるという証拠だ。

 

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激情の愛が消えた後、自分の心に何が残るのか?

人々が分離していくと、それを差別と結びつける人がいるが差別ではない。

結局のところ、同質性に惹かれるのは人間の本能である。自分に気付いていなくても、人は無意識に同質性を求めている。

だから愛が冷めたとき、たまたま自分と相手の根本的な部分が同質であったとき、激情の愛とはまた種類の違う「相手に対する想い」が続く可能性が高い。

最初は性格も気質も違っていても、長い時間をかけて互いに歩み寄るうちに同質になることもある。

そうやって長く続いた男と女の関係は美しい。愛は永遠ではないが、その永遠ではないものを互いにつなげ、互いに配慮したからそれは続く。

激情の愛は確かに消えるのだ。しかし、それでも一緒にいることができれば、また違う形の関係でつながることができる。そこに到達することができるかどうかは、相手もあることなので何とも言えない。

ひとつ言えるのは、激情の愛が消えたからと言って一方的に関係を捨てるのはとても虚しいということだ。

捨てられた方も心の傷は大きいが、捨てた方もまた自分では気付かないところで心が傷ついている。愛が壊れると互いに傷ついてしまう。それが続くと心が荒んでいく。

激情の愛が消えても互いに深い信頼があれば、別れるよりも一緒にいた方が合理的だ。

激情の愛がなくても、相手に対するいたわりや優しさがあって、相手の人間性が自分好みであったら、別れるよリも別れない方が合理的だ。

私は「永遠の愛」なるものを一度たりとも合理的だと思ったことはない。しかし、相手を取っ替え引っ替えするのもまったく合理的ではないと思っている。

男と女の関係で最も合理的なのは、日常生活を一緒に送ることが可能な人と、ゆるい信頼関係で結びついている関係ではないか。果して、それが正解かどうかは分からないが……。

 

激情の愛が消えても互いに深い信頼があれば、別れるよりも一緒にいた方が合理的だ。激情の愛がなくても、相手に対するいたわりや優しさがあって、相手の人間性が自分好みであったら、別れるよリも別れない方が合理的だ。

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