
ペートンタン・シナワット首相のクビは、政変でも何でもない。彼女自身の未熟さと軽率な行動が招いた必然的なものだ。ペートンタンは首相としての器を欠いていた。完全に「自滅」である。ペートンタンが首相の座に就いた瞬間から、遅かれ早かれ何らかのトラブルが出てくるのは最初からわかりきっていた。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
ペートンタン首相が事実上のクビとなった
2025年8月29日、タイの憲法裁判所はペートンタン・シナワット首相を解任した。理由は「国益を損なう倫理違反」である。
解任は当然の結果であり、むしろ遅すぎたと言える。国家の最高指導者が外国の元首相に電話で媚びを売り、自国の軍を「敵」呼ばわりするなど、あまりにも稚拙で軽率だった。
ペートンタンは首相としての器を欠いていた。カンボジアのフン・センを「叔父」と呼んで親密さを演出しながら、タイ軍司令官を「敵」と呼んだことは、国家の統治者としての自覚が皆無であることを示している。
外交は個人的な感情や一族の利害でおこなうものではない。公人であるにもかかわらず、私的な人間関係を前面に出した彼女の馬鹿げた言動は、国の信頼を損ねる以外の何物でもなかった。
ペートンタンは、父タクシンの七光りでもある。叔母インラックもひどい首相だったが、それに続いて、シナワット家の3人目の失脚となった。
この一族は、国家運営を「家業」と錯覚しているのかもしれない。選挙での人気を権力維持の免罪符にし、法や制度を軽視する姿勢が常に破滅を招いてきた。ペートンタンもまた同じ過ちを繰り返したに過ぎない。
タイの株式市場は延々と下がっている。これはペートンタンが国際社会や市場にまったく信頼されていなかった裏返しでもある。彼女の継続政権はリスク要因でしかなかったのだ。
彼女の解任が噂されるようになった頃から株式市場が少し持ち直してきたのは、いかに七光り内閣が嫌われていたかを示している。解任は短期的に混乱を招くが、中長期的には安定につながるのではないか。
無能な指導者を抱え続けるよりも、司法が強制的に排除したほうが合理的だ。首相としての資質を欠いた人物が、政権の座を追われたというだけの話である。
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首相としての力量不足が招いた「自滅」
ペートンタン・シナワット首相のクビは、政変でも何でもない。彼女自身の未熟さと軽率な行動が招いた必然的なものだ。
致命傷となったのは、カンボジア元首相フン・センとの電話会談だった。
国家の最高指導者が公の場で、相手を軽々しく「叔父」などと呼びかけながら語ったこと自体、首相としての自覚を欠いた行為だった。さらにタイ軍司令官を「敵」と位置づけた発言は、国家統治の根幹を否定するものだ。
このペートンタンの行動は、タイ国内の対立をいっそう激化させた。シナワット家を支持する大衆層はたしかに存在するが、問題はインラックもペートンタンも国を率いるリーダーとしての資質を完全に欠いていたことだ。
ペートンタンも父親タクシンに頼りきりで、最初からタクシンの傀儡《くぐつ》でしかなかったのは誰もが知っていた。彼女自身は未熟だったのだ。
そのため、ペートンタンが首相の座に就いた瞬間から、遅かれ早かれ何らかのトラブルが出てくるのは最初からわかりきっていた。私も一年前にこのような記事を書いている。(ブラックアジア:ペートンタン政権はタクシン一族の復活であり、タイの政治の新たな火種となる?)
今回の問題の電話が流出したあと、連立与党の一部は距離を置き始め、世論は急速に冷え込んだ。タイ政治における最大のタブーである軍との対立を軽視した結果、彼女は自ら孤立を深めた。
しかも、それを修正する能力もなく、結局は憲法裁判所に政治生命を断たれる結末となった。繰り返すが、これは陰謀や不運ではない。首相としての力量不足が招いた「自滅」である。
カンボジアとの国境問題は敏感な争点であるにもかかわらず、軍を軽視し、タイ側から見たら敵国であるフン・センに対して迎合する姿勢を見せたことで、国家の立場を大きく損なった。
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タクシンの神通力も衰えが見えてきている
ペートンタン首相の解任は、タイ国内の政治秩序をふたたび混乱に陥れた。しばらく、タイの政治状況は流動的になるだろう。シナワット一族も相変わらず政治に口を出してくるはずなので、政治動向は一筋縄ではいかないようにも思う。
とは言っても、シナワット一族もしばらくは強引に介入できないと思うので、政治的には落ち着いていくのかもしれない。
まずは、今回の司法の決定を受けて、副首相プムタム・ウェチャヤチャイが暫定的に政権を担うことになったが、これはペートンタンの失策を穴埋めする臨時の措置にすぎない。
議会は新たな首相を選出する必要があり、場合によっては2026年に前倒しの総選挙が実施される可能性も高い。
もし「仮に」だが、ここでまたタクシンが策謀と張り巡らしてカネをばらまきながら何らかの方法で実験を握ったとしても、また同じことになるだろう。タクシンの神通力も衰えが見えてきている。タクシンがふたたび院政を敷いたとしても、同じ結末を迎えるのは避けられない。
もう、いい加減タイ国民もタクシンにはうんざりしている。シナワット家のカネをばらまいて実験を握るような政治スタイルは完全に破綻したと断定できる。今回のペートンタンの解任で、シナワット一族を一掃して政治的浄化を見せて欲しい。
タイ経済においても、政治不安定化の代償は続くはずだ。短期的には市場の動揺が残り、外国投資も慎重になる。もっとも、ペートンタンを首相に据え続ける方が長期的リスクは大きかったので、中期的にはマシになるのかもしれない。
ただ、カンボジアとの関係修復は簡単ではないはずだ。互いの国民感情は最悪の状況に陥っていて、こうした憎悪はすぐに解決できるようなものではない。場合によっては、もっと悪化してしまう可能性もある。
選挙で選ばれた首相よりもパワーがある存在
それにしても、今回改めて浮き彫りになったことがある。表面的には憲法裁判所による「国益を損なう倫理違反」という判決であったが、その背後にある真の支配者は「軍」であることだ。
タイにおいては選挙で選ばれた首相よりも軍の存在が優越している。今回の事件はその現実を再確認させたと思う。
タイの近代史を振り返れば、1932年の立憲革命以来、軍は常に政治の中枢に介入し続けてきた。20回を超えるクーデターの歴史が示すように、軍は憲法や選挙制度がどう変わろうと最終的な決定権を保持してきた。
司法や憲法裁判所は独立した機関であるとされるが、実際には軍と連動して政権を監視し、必要とあれば排除する仕組みとして機能してきた。これはタイ特有の事情だが、今回の解任もまさにその典型であったかもしれない。
シナワット家と軍の対立は長年続いている。
父タクシンも叔母インラックも軍や司法の圧力で失脚し、ペートンタンも同じ運命をたどった。大衆的人気を背景に政権を握っても、軍の存在を無視すれば崩壊する。
ペートンタンがフン・セン元首相との通話で軍司令官を「敵」と呼んだことは、軍の権威に正面から挑む行為であったのだ。
タイにおける軍の力は単なる武力にとどまらない。王室や司法と結びついた複合的な支配構造を形成し、憲法裁判所はその制度的な盾として働く。形式上は倫理違反を理由に首相を排除するが、実際には軍が望まぬ政権を退場させる手段である。
軍と司法の連携は、民意による政治を常に上回る力として作用してきた。つまり、軍を敵に回しているシナワット一族とその政権は存続できない。首相がどれほど国民に支持されていても、軍の承認を得なければ政権は短命に終わる。
選挙は民主主義の形式を与えるにすぎず、実権はつねに軍が握っている。今回のペートンタン失脚は、タイにおける軍主導政治の永続性をふたたび証明した。結局、タイの支配者は首相でも政党でもなく「軍」だったのだ。




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