原理主義に突き進んだ世界では、その宗教に属さない人間は生きていけないのだ

原理主義に突き進んだ世界では、その宗教に属さない人間は生きていけないのだ

どの宗教も狂信的にそれを信じる人たちがいて、彼らが「原理主義」に突き進んでいき、まわりと激しい軋轢を生み出して殺し合いに向かっていく。宗教の名のもとにそれは行われる。歴史はそうやって形づくられている。私はそうした事実を知るにつれ、どこの宗教には属したくないと思うようになって今に至っている。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

タイで「悪霊《ピー》が憑いている」と言われてお祓いに行く

タリバンというイスラム原理主義集団がアフガニスタンを一気に掌握したことで、世界は再び「イスラム」にフォーカスしている。欧米でも日本でもイスラムに対しては「得体が知れない宗教」という思いを持っている人も多い。

イスラムの世界は日本や欧米の世界とは人権に対する考え方も常識も社会のあり方も根底から違っていたりするので、文化的衝突は非常に大きい。多文化共生にイスラムが組み込もうとして、対立・衝突・憎悪の連鎖に巻き込まれたのが欧米である。

宗教を巡る問題はとても根深く、多文化共生みたいな甘ったるい理想で包容できるような世界ではない。宗教は信じる者と信じない者を完全に分断するのである。

ところで、私自身はどこの宗教にも所属していない。これまで私が知り合ってきた東南アジア・南アジアの女性たちは、それぞれが仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教などを心から信じていた。

しかし、私自身はまったく感化されることはなかった。ただし、知り合った女性はいろんな宗教に属していた関係上、いろんな経験はした。

以前、私の体調が非常に悪かったとき、彼らはどうしても私を寺院《ワット》に連れて行きたがった。私に悪霊《ピー》が憑いているので、お祓いしなければならないのだと彼らは言った。

私は長らくタイをうろうろしていたが、それまで寺院(ワット)に足を踏み入れたことは一度もなかった。用がなかったからだ。しかし、この時はじめて断り切れなくて女性に連れられて足を踏み入れている。

一緒に行った女性が熱心に拝んでいるのを横目で見ながら、私はまったく何も期待しないでただ堂内を観察していただけだった。彼らの信じている仏教の世界は別に否定はしないが、自分が所属するところではないという意識はあった。

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イスラムなど一片も信じていない私にとっては豚肉の方が大切

インドネシアやバングラデシュでは、多くがイスラム教を信じている。奔放な女性たちでさえ、時にはジルバブをつけて敬虔になるのを目の当たりにして驚いたこともある。共同体から堕ちた彼女たちもイスラムを信じていた。

リアウ諸島のある島で私はひとりの女性に出会って「ふたりで暮らして子供を育てましょう」と言われたが、その時に私が思ったのは宗教のことだった。インドネシアで暮らすということは、私もまたイスラム教徒になるということなのか……。

堕落と退廃で生きてきた私がイスラム教徒になるというのは滑稽だ。別に彼女が心から信じているイスラムを頭ごなしに否定することはないし、モスクで祈ることくらいはするかもしれないが、イスラム教に属する気持ちはまったくない。

インドでは、どこのスラムに行っても、そのスラムの中の一角が祠《ほこら》のようになっている。そして、そこにはスラムに住む人たちが信じるヒンドゥーの神が奉られており、夕方になったりするとみんながそこに集まって祈りの時間になる。

そこに誘われると、私もまわりの人たちと同じように見よう見真似で聖なる煙を身体に浴びて一緒に祈る。それをすることによって、彼らは客人である私を受け入れてくれて一緒に食事ができる。

宗教歌もいろんなところで聞いた。インド女性の歌うマントラは美しくて、聞きながら涙が出た。

そう言えば、私はタイで多くの女性たちが仏陀《ブッダ》の像や祠に手を合わせるのを見て美しいと思ったり、インドネシアの女性たちのジルバブに見とれたり、インド女性のおまじないの仕草に心を奪われたりした。

しかし、それでも宗教には決して深入りしなかったし、常に一線を引いていた。注意深くそれを避けた。人々が何を信じても否定しないし、それはそれで構わないと思う。ただ、私自身はどこにも属さないように注意した。

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美しいとは思っても、自分がそこに所属することは考えなかった

宗教が人々の心に定着し、それが文化になり、共同体になり、時には宗教が生み出す様式美に感銘を受けることはあった。荘厳な雰囲気に惹かれることもある。だからと言って自分がそこに属することは考えなかった。

ありとあらゆるところに宗教があり、莫大な人口がそれを信じ、共有し、それこそが社会的秩序を生み出す元になっている。それは素晴らしい共同体であると言える。

しかし、私が宗教を避けたのは、宗教が現代社会にはそぐわないということや、科学的ではないことや、合理的でもないことや、その世界の教祖や神を崇拝しなければならないことが自分に合わないと思っているからだ。

宗教は思想そのものを支配する道具になる。信者は「否定できない教え」によってコントロールされる。信じているものに疑問を抱くことすらも許されない。それが心地良い人もいるかもしれないが、私には窮屈だった。

私は堕落していても純真なので、その宗教にマインド・コントロールされて、宗教の枠の中でしか考えられない人間になってしまう可能性がある。自分で何かを考えたのではなく、宗教組織が与えた「もの」を盲目的に受け入れて、ロボットかクローンのように反応するだけになるかもしれない。

そうなったとき、何が問題なのか。

もし、信仰している宗教の教祖や親玉に当たる人間が右を見ろと言えば自動的に右を向くし、左を見ろと言えば自動的に左を見るし、誰かを殺せと教祖が言えば誰かを殺すことになる。

ヒエラルキーの上部が乗っ取られて邪悪な人間が立つと、そっくりそのまま下層部がロボットのように邪悪になる。たとえば、先代が正しい人であっても、妙な人間が教祖の地位に成り上がったらどうなるのか。おかしいと分かっていても、盲目的に従ってしまう。

自分がその宗教を支配しているのでなければ、自分が支配されているということだ。

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宗教で神を盲信させ、神の名において反駁を許さない

新興宗教だろうが伝統的宗教であろうが同じだ。キリスト教には神父や牧師がいて、イスラム教にはウラマーやイマームと言った精神的指導者がいる。そして、祭事を司どったり人々を導くための組織があり、上下関係《ヒエラルキー》が存在する。

その宗教が組織になっていて執行部がいるのであれば、信者はある時に執行部の操り人形にされる。時には単なる捨て駒にされてしまう。その宗教コミュニティにとらわれたら逃げられない。

自分が世間から排斥されると、どんどん組織や教義に頼るようになる。そして、自分の思考を奪われる。上層部が間違っていてもカリスマ教祖が狂ってきても、それが正しいのだと信じてしまう。

イスラム過激派も、キリスト原理主義者も、ヒンドゥー原理主義者も、組織を持った宗教は全部そうだ。上層部が、時には下層部をロボットのように動かすのである。宗教で神を盲信させ、神の名において反駁を許さない。

両親がキリスト教を信じていて、社会が教会を中心にまわっていれば、そこで生まれた子供は生まれながらにしてキリスト教の思考を身につける。

そうすると、処女が懐妊して教祖キリストが生まれたとか、人類の罪を背負って死んだとか、そういう非合理的な話を真実と思い込んだり信じこんだりする。さらに、それを否定する人間には敵意を抱いたりする。

何でもかんでも聖書に照らし合わせて、「これは神の予言だ」とか「黙示だ」とか言い始めることもある。進化論を認めなかったり、中絶を認めなかったり、避妊を認めなかったりする。非合理と狂信に向かうのだ。これを「原理主義」と呼ぶ。

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非合理と狂信の中では、詐欺師でさえも神や仏に見えてしまう

神がいるのかいないのか。いるとしたらどんな姿かたちをしているのか。それは地域によって違う。神は人々が共有する「概念《コンセプト》」だからだ。

「みんなでこういうモノがいると一緒に信じて積極的に盲信しましょう」というのが宗教の基本だ。そして、「同じものを信じているのだから、私たちは友人であり仲間であり運命共同体だ」と言って秩序を生み出しているのである。

タイに悪霊《ピー》が「存在する」のは、それをみんなで信じているからだ。そして、その社会を受け入れば「我々は仲間だ」ということなのだ。

誰でも一人ぼっちは寂しいから、仲間になる引き換えにそれを受け入れようとする。受け入れれば共同体の仲間になれて、そこで暮らしていける。

そのかわり、共同体のために自分の「思考の自由」を捨てなければならない。そうやって思考が閉ざされていき、束縛されていき、時には組織そのものを盲信し、宗教の「捨て駒」になっていく。

タリバンは「イスラム原理主義」の集団である。原理主義であるからには、原理から外れたものは絶対に許さない、徹底的に排除するという思考になる。タリバンは自分たちの規範に従わない女性を処刑し、自分たちとは異質の文化は破壊する。

アフガニスタンにあったバーミヤンの仏像もタリバンによって破壊されたが、そうした排他的な行動は「原理主義」の中ではしばしば起こり得る。

どの宗教も狂信的にそれを信じる人たちがいて、彼らが「原理主義」に突き進んでいき、まわりと激しい軋轢を生み出して殺し合いに向かっていく。宗教の名のもとにそれは行われる。歴史はそうやって形づくられている。

私はそうした事実を知るにつれ、どこの宗教には属したくないと思うようになって今に至っている。いちいち、それぞれの宗教を否定して回るようなことはないし、信じている人に向かって何か言うこともない。ただ、私はどこにも属していないし属さない。

もし、私がアフガニスタン人だったら、私はタリバンに殺されてしまうだろう。タリバンは原理主義者なので、私のような人間は価値がないと見なすからである。原理主義者に乗っ取られた国は、そこに属さない人間は生きていけない。

アフガニスタンは、とても厳しい世界になっていくのだろう。

ブラックアジア
『ブラックアジア・インド・バングラデシュ編 売春地帯をさまよい歩いた日々(鈴木 傾城)』

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