原爆が投下された広島の惨劇は、いよいよ重みを増していく

原爆が投下された広島の惨劇は、いよいよ重みを増していく

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1945年8月6日、リトルボーイと呼ばれたウラニウム型原爆が広島上空高度約600メートルの上空で爆発した。

これによって爆心地500メートル圏内が一瞬にして吹き飛び、燃え上がっていった。

この圏内にいた人のほとんどは即死、即死を免れてもその後の数ヶ月で放射能症で死亡している。死亡率は99%。

この1%の中には、燃料会館の地下室にいたことで奇跡的に生き残った野村英三氏がいる。ただ、原爆の爆発の難を逃れても、放射線の症状が始まって生死の境をさまよい、そんな中で奇跡的に生き残った希有な人物だ。

500メートル外でも被害は甚大だった。爆心から4キロ離れたところでも、木造住宅の場合は爆風で屋内の人も畳と一緒に吹き上げられていた。

床が抜け落ち、建物が崩れて下敷きになった人もいた。そして、下敷きになったまま火に焼かれた。

当時の広島の人口は約35万人だったが、そのうちの半数が数ヶ月内に死んでいる。人類史上でも類を見ない未曾有の大惨事だった。

原爆。人類史上でも類を見ない未曾有の大惨事

原爆が投下されたのは朝8時15分頃だったが、この頃、広島市内では多くの学生が「勤労奉仕」を行っていた。

この当時、すでに日本軍は沖縄で壊滅的打撃を受けて戦況が悪化していた。そのため人々は「本土決戦」を想定して、防空壕の建設や建物疎開作業を行っていたのである。

男たちの多くは兵隊に取られて人員が足りなかったので、こうした作業に駆り出されたのは、中学生や女子学生だった。

すでに学校は勉強を教える場所ではなくなり、学生たちは畑作業や軍需工場の手伝いをするようになっていた。これを「勤労奉仕」と当時は呼んでいた。

原爆が落ちた瞬間、屋外にいたこの勤労奉仕中の中学生や女学生たちが一瞬にして熱線に焼かれ、即死した。生徒が全滅してしまった学校もあった。

500メートル圏内で熱線の直撃を受けた者の中には身体が溶けて蒸発し、「影」として残った者もいる。爆心地の温度は3000度以上に達していたのだ。

爆風は凄まじく、彼らの着ていた服は剥ぎ取られ、あるいは燃え上がり、建物やガレキと共に吹き飛ばされて、全身がズタズタになってしまった者もいる。

爆圧の直撃で、眼球が飛び出し、破れた皮膚から内臓がこぼれ落ちたまま、よろよろとさまよっていた人たちもいた。

多くの人は火傷を負っていたが、その火傷の状態は凄まじかった。皮膚は熱でドロドロに溶けて垂れ下がり、全身が腫れ上がり、親子でさえも相手が判別できないほどの状況になっていたという。

大火傷を負った多くの人たちが、両手を前に突き出すようにして、よろよろと燃え上がる町をさまよい歩き、その多くが本能的に水を求めて川に集まった。

そのため川はたちまち力尽きて死んでしまった人たちの遺体で埋まり、それが海に流され、瀬戸内海は原爆で死んだ人たちの遺体がおびただしく漂流していた。

放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」が降り注いだ

原爆によって広島市は壊滅し、病院もほぼ機能しなくなっていた。医師も被爆しており、看護婦もおらず、病院の建物も破壊され、薬もなかった。

にもかかわらず大量の患者が押し寄せて、そこで死んでいった。神社の境内にも多くの被爆者が集まり、そこで固まるようにして死んでいった。

この地獄を生き残った人の手記では、力尽きた人が死体に折り重なって亡くなっていくので、誰が集めたわけでなく、自然に亡くなった人の山ができていったという。

行政機関も停止していた。市の中心地にいた職員のほぼ全員が死傷してしまっていたからだ。

原爆が落ちて町全体が黒煙を上げて燃えている最中、今度はそんな中を激しい雨がいきなり降り出したという。これが、放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」だった。

雨は一時間近く降り注いだ。被爆者の多くはこの「黒い雨」を浴びている。これが生き残った人たちを執拗に苦しませる「原爆症」を発症させる原因ともなった。

この「黒い雨」は爆心地から19キロも離れたところでも降っていたことが分かっている。

アメリカと日本政府は後に爆心地から2キロ範囲内にいた人たちを「被爆者」として扱うことにするのだが、これが「被爆者」に入れられなかった人たちの悲劇を後に生み出すことになっていく。

野村英三氏の手記によると、この雨はとても冷たかったと言う。氏は、このように証言する。

「雨が止んだ頃には寒さのためにふるえだして歯の根も合わない。そこで又火の方に近づいて体を温め二三十分もしたらやつと人心地がついた。八月の盛夏、大火事の中心にいて寒さのために火に近寄るということは何としたことだろう?それ程あの時の雨は身に應えたのである」

それは、ケガをしていない人をも蝕むものだった

原爆が落ちたのは8月だった。真夏の町に放置された死体はすぐに腐り始め、被爆地はハエとウジで埋め尽くされた。ガレキに埋まった遺体、路上に放置された遺体、川に浮かぶ遺体、ありとあらゆる遺体にウジが湧いた。

そして、まだ生きている人の大火傷した皮膚にもハエが卵を産み付け、ウジが這い回るような悲惨な状況になった。

生き残った人たちが、それを箸(はし)で取ってあげていたのだが、どんなに取ってもまたウジは湧いたという。

そうしている間に、今度は無傷だったはずの人が血を吐いて倒れはじめた。高熱と、下痢、点々と浮き出る紫や赤の斑点、喀血、脱毛、歯茎からの出血……。

この頃、まだ放射能の知識が医者にもなく、何が起きているのか誰も分からなかった。下痢が続くので、赤痢ではないかと判断する医師もいた。

しかし、すぐにそうではないことが分かってきた。「新型爆弾」は、ケガをしていない人をも蝕むものだったのである。

爆心地で放出された放射線はガンマ線は103シーベルト、中性子線は141シーベルトだったという。放射能は人間の細胞を崩壊させていく。そのため、身体のあちこちが機能しなくなる。

こうした原爆症が次々と発症する中、次第に被爆した人たちは差別を受けるようになっていく。それは伝染病のようにうつると思われたのだった。

それが伝染病ではないことは後に一般人も理解するようになるが、だからと言って放射能に汚染された人たちの身体が健康体になることはない。戦後70年経った今も、原爆症は生き残った人たちを苦しめている。

原爆が投下された広島の惨劇は、風化していくのではない。これから、いよいよ重みを増していく。今もなお、世界は核で均衡が保たれている。核は現役である。そして、中国は多くの核を日本のそれぞれの都市に向けている。

高熱と、下痢、点々と浮き出る紫や赤の斑点、喀血、脱毛、歯茎からの出血……。原爆による直接被害を免れても、放射能による影響で多くの人たちが亡くなっていった。

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