
対立や衝突を避けて対話を求めるのは重要だ。しかし、自分の尊厳を踏みにじられている時、あるいは自分たちの権利が侵害されようとしている場合、あるいは民族の危機に陥った場合、戦わなければならないことがあるというのも事実なのだ。過剰な平和主義は逆にリスクを高める。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
人は自分の尊厳のために相手と戦うことも辞さない
トランプ大統領は「自分ならロシアとウクライナの戦争なんか一日で終わらせることができる」と豪語していた。だが調停は失敗し、ロシアとウクライナの戦争はまだ終わらない。
いったんこじれた国家間の対立はなかなか解決できないし、それがゆえに戦争は拘泥化する。日本ではほぼ報道されていないが、捕虜の斬首だとか死体損壊なども起こっており、憎悪をむき出しにして互いに殺し合っている。
世界は「自分の国もいつか戦争に巻き込まれる時がある」というスタンスである。だから、それぞれの国は国防のために軍隊を持っているし、軍事産業も持っている。戦うために武器も弾薬も保有しているし、核兵器も保有している。
世界は密接につながっているので、どこの国も他国の紛争に巻き込まれるリスクを抱えている。友好とか平和とかきれい事を言っても、対立が起きたら一瞬で吹き飛ぶ。戦争が始まったら軍需産業が儲かり、戦争が終われば復興で儲かるという側面もあって戦争を煽る勢力もある。
日本も危険な国に取り囲まれている。当然、何かあれば武力衝突に巻き込まれるような時代に入ってもおかしくない。これからアジアでも武力衝突の時代が到来しても驚くことは何ひとつない。
対立と衝突と武力の行使は、絶対に社会から消えない。
人は意見が違い、利害が対立し、それぞれの国は周辺国と衝突する。宗教対立で衝突し、民族対立で衝突し、領土問題で衝突し、歴史問題で衝突していく。これは、歴史を見ればわかることだ。
民族のプライドや、国家の威信や、国益のために譲れないものがたくさんある。誰かがそれを侵害するから、それに対して抵抗が生まれる。今も世界中のあちこちで衝突が起きている。
自分たちの尊厳が傷つけられたり、侮辱されたり、騙されたり、襲われたりすると、人は自分の尊厳のために相手と戦うことも辞さない。それを否定することは、自分を否定することにもつながる。
対立や衝突を避けて対話を求めるのは重要だが、自分の尊厳を踏みにじられているとき、あるいは自分たちの権利が侵害されようとしているとき、あるいは民族の危機に陥ったとき、戦わなければならないことがあるというのも事実なのだ。
こちらから仕掛ける必要はない。だが、仕掛けられたときは激しく抵抗するのは「当然の権利」であると言える。それができないと民族は消滅する。日本も自国を守れなければ、侵略されて歴史も伝統も文化も消え去る。
邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる
邪悪な世界が私たちにワナを仕掛ける。それは1つ2つのワナではない。いくつものワナが同時並行に多重に連なりながら続く。
平和主義であることが国難の確率を高める
世の中には平和主義者がいるのと同様に、単純に暴力を振るったり、誇示したりする人間たちもいる。粗暴で、乱暴で、けんか腰で、反抗的で、危険で、荒々しく、気性が激しい人間がいる。
血の気が多く、恫喝的で、信じがたいまでに短気で、すぐにカッと来て手が出る暴力的な人間・組織・国家があるのだ。しかも、私たちが考えている以上に多い。
チンピラ、マフィア、ヤクザ、テロリスト、ならず者国家……。彼らの前に理屈はない。ただ、「暴力としての本能」がそこにあるだけなのだ。平和主義者もいるが、そうでない人間も膨大にいる。
それを認識すれば、「世の中は常に平和である」という前提で物を考えるのが、いかに危険なのかがわかる。
日本人がいくら平和主義でいたとしても、利害関係の衝突や歴史の問題で日本を嫌う民族はいる。日本を侵略したい、日本を崩壊させたい、日本が消えてほしいと切に願う国もある。
ということは、日本が弱体化したら、いくらでも侵略が仕掛けられる。日本は平和国家だとか言っても、そんな建前で国が守れるわけがない。
民族対立の前には常識も良識も通用しない。相手の主義・主張どころか存在そのものが邪魔になるわけで、どこまでもこじれる一方になる。いったんこじれれば、もはや融和など絶対に不可能となる。
「相手に譲歩する」ということは、自分の存在が脅かされるということなので、対立が極まれば相手を駆逐するしかない。日本が自国を防衛しないというのならば、日本の侵略を画策する国家は、「日本は弱い」と認識してよろこんで侵略してくるだろう。
そうなると、平和主義であることが国難に巻き込まれる確率を高めるという皮肉な結果になる。弱いという状態はすさまじく危険なのだ。
逆に「あの国を攻めたら報復されてしまう」という状態が、攻撃を引き留める結果となり、平和をもたらす。
小説 スワイパー1999: カンボジアの闇にいた女たち (セルスプリング出版)
1999年、カンボジア。内戦と貧困で荒廃したこの国に、ベトナム人の女たちが集まった売春村「スワイパー」があった……。
自分にも危害が飛んでくるかもしれない
日本人は現実社会に存在する「暴力」に対してきれい事を言いすぎる民族になってしまったのではないか。
面白いことに、「暴力反対」とかきれい事を言う日本人でも、映画やドラマや小説や漫画やゲームなどで、主人公が暴力を振るうコンテンツを楽しんでいる。
映画でも、アクション物という名の暴力物や、ホラーという名の暴力物や、警察物という名の暴力物や、戦争物という名の暴力物や、SFという名の暴力物や、ヒーロー物という暴力物ばかりがヒットしている。
正義の見方が悪漢をぶち殺す暴力的な物語が繰り返し反芻されるのは、人は「どうしようもない人間が暴力的に抹殺されるのがうれしい」からだ。
極悪人が好き放題に暴力を振るって暴れ回っているのに、正義の味方が話し合いで解決しようという映画など誰も見ない。暴力を振るう存在が暴力で死ぬ映画を私たちはよろこんで見ている。極悪人が爆殺されれば、私たちはうれしくなる。
ゲームでシューティング物があるのは、自らの感情の中の暴力性を刺激されるからだ。ボクシングやプロレスや格闘技は、コントロールされているとは言えども暴力そのものだ。どちらでもいいから、激しい戦いで相手が倒れるのを私たちは望んでいる。
つまり、平和主義者が「争いのない世界」を願う以上に、人間は暴力を求めている。そういった世の中の実態をひとつひとつていねいに、きちんと見ていけば、人間の暴力性が実感としてわかるようになる。
それならば、こう思わないだろうか?
「実は、自分も暴力を本能的に肯定しているのではないのか?」
誰でも「自分は暴力を肯定している人間だ」と思いたくない。だが、誰もが暴力が吹き荒れるコンテンツを楽しんでいる。それを見てもわかるが、暴力は人間の心の根幹に本能として持ち合わせている。
【小説】背徳区、ゲイラン
シンガポール・ゲイラン。何も信じない、誰も信じない女に惹かれた先にあったのは?
平和主義は捨てたほうが裏切られなくてすむ
暴力は存在する。これは自然現象として、地震や津波や洪水や豪雨や豪雪が存在するのと同じだ。毎日、地震がくるわけではない。毎日、豪雨がくるわけではない。しかし、毎日来ないから存在しないわけではない。自然現象として、存在している。
そして、いつか遭遇する。
暴力もまた人間社会につきものの「自然現象」である。たしかに、それは毎日訪れるものではないが、だからと言って存在しないわけではない。社会現象として、存在している。とすれば、いつかそれに遭遇する。
私たち自身が暴力に遭遇することもあれば、私たちの国が暴力に遭遇することもある。では、どうすればいいのだろうか。「そんな暴力は来ない」「武力衝突はない」と言って、平和主義でいるのは、頭の良い対応だろうか?
現実逃避してもしかたがない。別に私たちが暴力的になる必要はないが、平和主義は捨てたほうが裏切られなくてすむ。
私たちが目指すべきなのは、「平和主義」ではなく「現実主義」だ。平和を願って平和になるくらいなら世の中は今頃とっくに平和になっている。誰もが平和を願っているが、世の中は暴力に満ちあふれている。残念ながら、これが現状だ。
それなのに、日本人だけが、やたらと平和主義に染まっている現状には非常な危機感を覚えないだろうか。
子供の頃から、日本人は「平和、平和、平和」と繰り返し言われ続けて、暴力を完全否定するように教育されてきた。だが、それでも暴力は存在している。これが現実だ。
そろそろ、私たち日本人は暴力の存在を認め、日本と敵対する国家があることを認め、何もしなければ組織的暴力の犠牲になることも理解しなければならない時代になった。
平和主義者であるよりも、現実主義者であるべきだ。そうでないと、日本人は助からない。まずは、過剰な平和主義であることを捨てることから日本人はリハビリをすべきなのだろう。







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