バングラデシュ。宗教で分離して翻弄され、民族対立で分離して翻弄された国

バングラデシュ。宗教で分離して翻弄され、民族対立で分離して翻弄された国

バングラデシュは私の好きな国のひとつだ。この国は世界でも貧しい国の筆頭として挙げられる国なのだが、インドに比べると人々の素朴さは忘れがたく、女性たちも本当にエキゾチックで独特の美しさがある。好きだ。

2019年3月26日。バングラデシュは48年目の独立記念日(インデペンデンス・デイ)が盛大に祝われ、人々は歓喜した。

この国は独立してから48年経っても依然として経済発展の緒(いとぐち)すらもつかむことができずにもがいているのだが、それでも人々は自国を愛しているのが独立記念日の熱狂で分かる。

バングラデシュはかつて「インド領・東ベンガル」と呼ばれており、インドという国としてイギリスに統治されていた。

1947年には「東パキスタン」としてインドから分離独立をしている。しかし、この1947年はバングラデシュでは「独立記念日」になっていない。

バングラデシュの真の独立記念日は、インドから分離独立した後、今度はパキスタンから独立して成し遂げられたと人々は考えているのだった。この歴史を見ても、バングラデシュの複雑な歴史が垣間見える。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

2019年3月26日バングラデシュ独立記念日

 

 

ヒンドゥーとイスラムの闘争

インドと東西パキスタンが分離独立したのは、インド圏内のイスラム教徒が強硬に「イスラムの国」として分離独立を望んだからである。

ガンジーの巧みな交渉でインドの独立が決定的になった時、イスラム教徒は「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は別々に独立すべきだ」という意見を激しく展開していた。その流れとして、1940年にはムスリム連盟によって「ラホール決議」がなされている。

ガンジーとネルーはヒンドゥーとイスラムは融和して共にひとつの国として独立すべきだという立場を取っていた。しかし、それはイスラム教徒には、到底許容できるようなものではなかった。

なぜなら、ヒンドゥーが大多数を占めるインドがヒンドゥー教徒の国として独立すると、政治的にも文化的にも、少数派のイスラム教徒はあらゆる面で不利になるからである。

「多数派ヒンドゥー教徒の干渉を受けないで、イスラム教徒が安心して暮らせる社会を作っていきたい……」

インド内のイスラム教徒はそのように考えていた。そのためには、インドからも「分離独立」するのがイスラム教徒にとってはもっとも最善の方法だった。

インドを分離独立させたくないというヒンドゥー側の主張と、頑として分離独立を主張するイスラム教徒側との対立と不信は1946年には最高潮に達した。

結果的には、1947年には分離独立という結果になるのだが、この時の相互不信と激しい宗教対立は今も続いており、それがインド・パキスタンの国境紛争として継続している。

インド国内ではしばしばイスラム教徒のインド人が集団で殺戮される。それに激怒したパキスタン人は、インドでテロを引き起こす。このイスラム教徒のテロで最も凄惨だったのは2008年11月26日ムンバイで起きたタージマハルホテルの同時多発テロ事件だった。

この事件は何度か映画化されているのだが、『ホテル・ムンバイ』という映画が注目されている。

 

「カーフィラ」と呼ばれた民族移動

1947年のインドと東西パキスタンの分離独立は、当時、凄まじい混乱と破壊をもたらしたのは、あまり知られていない。

「東西パキスタン側にいたヒンドゥー教徒」と「インド側にいたイスラム教徒」が、宗教的弾圧を恐れ、大混乱の中で同じ宗教国の方に移動を開始したのである。

この時に移動した人々は1200万人に及ぶ。人間の歴史がはじまって以来、これほどの人口が大混乱の中で移動したケースは他にない。

移動する人々をめがけて襲いかかる強盗、暴力、殺人、憎しみによる虐殺、相手の宗教の女性へ向けられた容赦ないレイプ、若い娘の拉致、強制妊娠……。

そう言った事件が起こるたびに、それがさらに人々の不安と憎悪を募らせて人々の移動を決意させた。

車やバスで移動しようとするものの、道を埋め尽くす人々の群れに往生して、結局多くの人々は「カーフィラ」と呼ばれた十数キロに渡る長い行列の中に加わり、徒歩で移動するしかなかった。

最終的にインド・パキスタンの分離独立は、100万人もの人々がこの混乱の中で死亡し、10万人もの女性がレイプされるという未曾有の混乱となった。

 

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民族が違うと国が割れる

インドと東西パキスタンの分離独立も混乱だったが、それが終わると事態は収束したわけではなく、独立した東西パキスタンは、それからまた苦難が始まった。一番の問題は、独立した東西パキスタンが1600キロも離れた飛び石国家だったことだ。

東西パキスタンはインドから分離独立した「イスラム教徒の国」ということでは一致していた。しかし、同じだったのはそれだけだ。

東西は、民族も、環境も、文化も、言葉さえ違っていた。

パンジャブ人やパシュトゥーン人はカシミール地方で話されているウルドゥー語が公用語となっているが、ベンガル人が大多数を占める東パキスタン(現バングラデシュ)はベンガル語が基本である。

それを同一の国家として独立させたのだから、そもそも最初から無理があった。

建国からしばらくして東西パキスタンは選挙権や公用語を巡って、すでに激しい対立や牽制、西から東への人種的・経済的差別が行われた。このような対立が元になって、1952年にはダッカで大きな暴動が発生した。

1957年には西パキスタンからの完全自治を要求する決議を出すに至った。このとき完全自治要求を求めていたのはアワミ連盟である。

東西パキスタンは底なしの民族対立に巻き込まれ、1966年にはアワミ連盟を率いていたムジブル・ラーマンが反国家分子であるとして西パキスタン政府に逮捕されてしまった。

これに抗議した東パキスタンは国民一致で大ストライキを敢行してパキスタン全体に深刻な経済的ダメージを与えた。もはや東西パキスタンは泥沼の抗争で割れて、ひとつの国としてまったく機能しない状況へと陥った。

民族が違うと国が割れる。それを如実に示したのが東西パキスタンの姿だったとも言える。

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西パキスタンと東パキスタンの殺し合い

両者は相手側に対する鬱積する不満に、しばしば国会での長い不毛な議論や、何日にも渡る完全ストライキが行われて、それがさらに双方の憎悪を掻き立てる元凶になった。

1970年には統一選挙が行われたが、ここで数で勝る東パキスタンのアワミ連合が勝利を得た。

1947年の独立から東西パキスタンの政治と軍部は西パキスタンが掌握していたが、アワミ連盟のムジブル・ラーマンが第一与党になると、それまでの力学がすべて反転する。

予想外の事態に驚愕した西パキスタンのヤヒヤー大統領は国民会議を延期し、結託している軍を使って再びムジブル・ラーマンとその支持者を逮捕した。

東パキスタンではそんな西パキスタン政府の態度を不服として各地で暴動が起こった。そして1971年、西パキスタン人で構成された軍隊が東パキスタンに派遣されて各地で衝突がはじまり、それは内乱へと発展した。

西パキスタン軍は東パキスタンの全都市を占領し、無抵抗の人々に銃を乱射して大虐殺し、村を燃やし、女たちをレイプして回った。

戦乱に巻き込まれるのを恐れた人々がインドに向かって着の身着のまま逃げ出して、インド・東パキスタンの国境地帯は難民で溢れかえった。難民の数は100万人に達していた。

その混乱のさなか、東パキスタンは一方的に「バングラデシュ人民共和国」として独立を宣言したのだった。ちなみに、バングラデシュとは「ベンガル人の国」という意味だが、その国名はつまりこう主張している。

「東パキスタンにいるパンジャブ人やパシュトゥーン人は関係ない。ここはベンガル人だけの国なのだ」

アワミ連盟のムジブル・ラーマン。東西パキスタンから「バングラデシュ」へと独立させたバングラデシュ初代大統領。

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前途はまだ「洋々」とは言い難い

殺戮者と化した西パキスタンの軍隊が有無を言わさない弾圧と虐殺を開始すると、コルカタ(旧カルカッタ)にも都市の許容量を越えた人々が難民として雪崩れ込んだ。コルカタの路上や駅の構内で倒れるようにして眠る膨大な難民の姿が見られたのもこの時期である。

西パキスタンの暴挙とも言うべき大虐殺と、東パキスタン人によるゲリラ戦が伝えられると、すぐにインド軍が介入した。

すでにインドと西パキスタンはカシミールの問題を巡って二度の戦争をしていたが、西パキスタンがインドを空爆すると、インド軍も怒濤の反撃を開始した。

1971年11月には非常事態宣言が出され、両者はついに第三次印パ戦争へ突入した。結局、バングラデシュの各都市で、インド軍とバングラデシュのゲリラ軍に挟み撃ちにされたパキスタン軍は、為す術もなく崩壊していく。

かくして、東パキスタンからバングラデシュとなったベンガル人は、1971年12月16日には正式な独立を手に入れたのだった。

しかし、アワミ連盟のムジブル・ラーマンは建国の父だったが、疲弊したバングラデシュを苦境から脱出させることができず、1973年には大飢饉を起こしてしまう。

ムジブルは強権発動でそれを乗り切ろうと試みるが、軍事クーデターによって家族・親族もろとも暗殺されてしまった。

その後、首相になるシェイク・ハシナはムジブル・ラーマンの娘であるが、彼女のみがドイツ留学でバングラデシュを不在にして助かったのだった。それからも政治は安定せず、1981年にも大統領暗殺、翌年には無血クーデターが起きた。

以後も私利私欲に走る政治家と激化する反政府運動によって、まったく国としての体裁ができていない。

世界最貧国のひとつであるバングラデシュは、このような長い政治的混乱によって社会的な不安と影響が引き起こされ、現在に至っている。バングラデシュは確かに48年目の独立記念日を迎えた。しかし、前途はまだ「洋々」とは言い難い。

そんな複雑な歴史を持つ国を、私はこれからも見つめていきたい。(written by 鈴木傾城)

 

世界最貧国のひとつであるバングラデシュは、このような長い政治的混乱によって社会的な不安と影響が引き起こされ、現在に至っている。バングラデシュは確かに48年目の独立記念日を迎えた。しかし、前途はまだ「洋々」とは言い難い。

売春地帯をさまよい歩いた日々インド編

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