社会をよく見れば、人間は愛と同じくらい暴力を欲していることに気付く

社会をよく見れば、人間は愛と同じくらい暴力を欲していることに気付く

人は互いに愛し合う。人は愛情や友情がなくては生きていけない。人は優しさがなければ耐えられない。だから、多くの人が愛を求めてさまよい続ける。しかし、一方で人は暴力を求めるという矛盾した性格を持つ。

ひとりの人間の中に、愛と暴力が共存している。

兵士もマフィアもチンピラも、家庭に入れば妻と子供を抱きしめる。他人に対して激しい暴力を振るう男が、家に帰れば良き家庭人となる姿は珍しくないのだ。

彼らは一方で他人に暴力を振るいながら、一方で自分の配偶者を愛し、子供を愛し、家族を愛する。

男が暴力的な志向を持つのは、「獲物を狩る」という狩猟本能が必要だったからだ。狩猟本能とは、すなわち「動物を殺す=暴力」のことである。また襲いかかってくる動物と戦う局面もあった。

そして、石器時代は女性を取り合うにも暴力が必要だった。女性は他の男と奪い合って手に入れるものだったからだ。

人間社会から暴力が消えないのは、暴力がなければ生存できない古代からの歴史が遺伝子に染みついているからだ。食欲と性欲は密接に暴力と結びついていたので、脳も暴力を本能として格上げしている。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

本能の奥深くに暴力に対する渇望が

暴力を否定するのはまっとうな社会人としては当然だ。それは人間社会ではあってはならないものだからだ。暴力はいけないという教育が為され、暴力は人間社会から排除される。暴力行為があれば法律で厳しく罰せられる。

子供の頃から、暴力は振るってはいけないと厳しくしつけられるのだ。

ところが、いくら社会が否定しても人間の本能の奥深くに暴力に対する渇望が秘められていて、それが隠せない。戦争の時代は暴力が蔓延するが、平和な時代でも暴力はどこにでも転がっている。

「暴力なんてとんでもない。自分は暴力に無縁だ」と固く信じている人も、実は無縁ではない。

たとえば、私たちの誰もがアスリートが激しく戦い合うスポーツを見て楽しんでいたり、人が死ぬ映画を喜んで見たりしている。暴力は嫌いだという人が、そういうのを見ている。

映画やドラマや小説や漫画やゲームなどのコンテンツは、暴力シーンを扱えば売り上げが上がる。だから、主人公が暴力を振るう映画が量産されていく。それが売れるのだから仕方がない。

正義の見方が悪漢を銃で撃ち殺す「暴力の物語」が繰り返し反芻されるのは、人は「どうしようもない人間が暴力的に抹殺されるのが嬉しい」からだ。ゲームでシューティング物があるのは、自らの感情の中の暴力性を刺激されるからだ。

親も子供がそのような映画を観るのを止めない。アメリカでもヒーロー物と称して主人公が大量殺人する映画が大ヒットし続けている。そして、モノを破壊し、人を殺しまくる場面で観客が喝采を叫ぶ。

人々は、カネを払って暴力を見に行く。

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それは暴力の代用か、暴力そのもの

スポーツにも、暴力がとても直接的に取り入れられている。たとえば、ボクシングやプロレスや格闘技は、コントロールされているとは言えどもやっていることは暴力そのものだ。

ボクシングや格闘技は、相手を殴りつけて勝敗を決める残酷なものである。ボクシングはスポーツであるが、同時に暴力行為でもある。

しかし、ルールを決めて行っているのだからそれはいいと人々は無意識に思う。そこにまぎれもなく暴力があるというのは奇妙なことに、人々の頭からすっぽりと抜けている。

野球やサッカーやラグビーやアメリカン・フットボールやホッケーでさえも、暴力が隠されている。

人間が本当に暴力が嫌いだと思っているのであれば、スポーツは絶対に流行しない。暴力を見たいから、暴力がベースになっているスポーツを見る。

どう見ても、スポーツは暴力の代用か、暴力そのものであり、それを見て人間は喜んでいる。

暴力を描写する映画から、暴力を描写するゲーム、そして暴力そのものを表現するスポーツは、人類の巨大な「娯楽」であり、それなしには文明が成り立たない。

暴力が文化に織り込まれていたのだ。

そういった世の中の実態をひとつひとつていねいに、きちんと見ていけば、人間は、愛と同じくらい暴力を必要としていることがわかるはずだ。

暴力の渇望は、まさに本能レベルで刷り込まれており、それがゆえにどんなに社会が躍起になっても、世の中から暴力が消えることがない。

 

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紛れもなく人々は暴力に飢えている

これだけ暴力が否定されている世の中なのに、この世から暴力がなくならない。軍を持たない国はないし、警察組織を持たない国もない。

治安の良い先進国でも警察は必要だ。なぜなら、間違いなく社会のどこかで暴力事件が発生するからだ。日本は世界でもトップクラスの安全な国だが、その日本でも警察は存在する。

人間社会で戦争がなかった時代はないし、平和な時代であっても、絶えず細かい紛争や集団暴力が発生している。

現代も、中東やアフリカが血まみれになっている。南米は戦争が起きていないが、信じがたいまでの治安悪化で暴力が蔓延しているのは、ブラックアジアでもしばしば取り上げている。

人間の社会というのは、いつの時代でもどこの国でも、間違いなく暴力が存在する。暴力が明確に否定されるのは「実は人間が暴力的だからだ」と気付かなければならない。客観的に言うと、人々は暴力に飢えているのだ。

それでいて暴力はいけないと、私たちはしたり顔でそれを否定している。もしかすると、私たちは単に「建前」を口にしているだけかもしれない。

私たちは食欲という本能を持ち性欲という本能を持っている。誰もそれを否定しない。あなたも自分の中にそういった本能があることを認めるはずだ。

では、なぜもうひとつの本能である「暴力」だけが自分からすっぽり脳から抜けていると思うのだろう。暴力は、間違いなくあなたの体内にも眠っている。どれだけ愛を語っても、同じ人が暴力の本能を裏に秘めている。

ここが、人間の恐ろしい部分である。(written by 鈴木傾城)
 

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