消えていくスラムと、消えていく想い出と、先進国のこと

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東南アジアの貧困地帯は最初は怖かった。最初にスラムに立ち入ったのはクロントイ・スラムだった。私はクロントイが巨大スラム地帯であると知っていたわけではない。

私は当初、ヤワラーの旅社(ゲストハウス)に泊まっていたのだが、次第にパッポンが私の主戦場になってくるに従って、拠点をマレーシアホテル界隈の格安ゲストハウスに置くようになっていた。

パッポンは真夜中の街だ。昼間に起き出して食事をしたいのと冒険をしたいのが重なって、私は近所を散策するようになっていたのだが、マレーシアホテル界隈からクロントイスラムは1キロも離れていなかった。

私は知らずしてクロントイ・スラムに入り込んでいたのだ。

私が最後にこのクロントイ・スラムを訪れたのは2011年頃だが、久しぶりにそこを歩いて私が思ったのは、「ずいぶん綺麗になったものだ」という感想だった。

1980年代のクロントイ・スラムは、地面は泥でぬかるみ、バラック小屋は本当に廃材を適当に貼り合わせただけのような出で立ちで、ドブの悪臭と腐った臭いと食べ物の臭いが濃密に漂っていたようなところだった。

貧困の度合いは今とは比較にならないほど悲惨だった。住んでいる人たちも男はみんな上半身裸で女性も汚れていた。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

売春する女性がクロントイ・スラムで暮らしていた

クロントイ・スラムは入ってはいけないところだった。そこは観光地でも何でもない。

人々はよそ者を嫌い、自分の生活圏に見知らぬ人間が入るのを極度に警戒していた。目が合うとにっこりと笑ってくれるタイ人の寛容さはここにはまったくなかったのだ。

私は自分がスラムに入り込んでしまったのに気付いて、引き返そうと思ったのだが、スラム特有の細道が方向感覚を失わせて私はなかなかスラムから出ることができなかった。

大通りに出られてやっとスラムを抜けたと分かった時、私は全身びっしょりと汗に濡れていた。若かった頃、私は別にこうした貧困層に深い興味は持たなかった。だから、もう二度とクロントイには行かないと思ったのだった。

しかし、その後も私はクロントイと縁が切れなかった。

なぜなら、当時のパッポンの女たち、あるいはルンピニ公園で売春をしていた女たちの何人かはクロントイ・スラムかその近辺で暮らしていたからである。

パッポンのゴーゴーバー『リップスティック』や『サファリ』は、東北地方(イサーン)からやってきた女性たちが多かった。地方からの出稼ぎだ。

彼女たちと昼間を過ごすこともあった。

この当時はタイでクーラーが効いている快適な場所というのはデパートだったので、サイアムあたりまで繰り出してデパートの床に座り込んで冷えたジュースを飲むというのが一番快適な時間の潰し方だった。

今ではデパートの床に座り込むというのは考えられないが、当時はデパート側も心得ていて、一階にテレビを一台置いて客が座り込んでテレビを見て時間を潰せるようにしていた。

そこでテレビを見たり、話したりして、飽きたらデパートの中をウィンドウ・ショッピングして、それが終わったらいったん別れて、翌日にパッポンのバーで会うというような付き合い方を女性たちとしていた。

すると、そのうちに「家に来ない?」と言う女性もいて、喜んでついて行ったら、そこがクロントイ・スラムだったりするのだった。

バラック小屋に行っても決して二人きりになれなかった。ほとんどの女性は誰かと共同生活をしていたからだ。姉妹のこともあるが、同じ郷里の女性たちであることも多かった。

部屋は狭いし、暗いし、人はやたらと出入りする。落ち着かないので、私は何度か女性の家に行ったが、そのうちに行かなくなってしまった。クロントイ・スラムは、いつでも私にとっては居心地の悪い場所だったのだ。

クロントイ・スラムの一角。私が知っているかつてのクロントイ・スラムは、舗装もされず道はぬかるんで異臭を放っており、建物は廃材とトタンでできていた。この写真は、もうスラムとは言えない。

最近のクロントイ・スラムについては、ティム・ラッセルという写真家が貴重な写真を撮っている。こちらだ。

http://bit.ly/2muiolO

別れてしまえば記憶でしか残らない女たちが大切

クロントイ・スラムは、何度も何度も火事に遭っている。

いったん火が出ると、結構な大火になりやすい。スラムはもともと燃えやすい材質でできている上に、路地は極度なまでに狭く、消火活動がなかなかうまくできない。

だから、いったん火事が起きるとスラム全域が全滅してしまうような火事となる。

そして、火事が起きるたびにスラムは再開発の波にさらされたり、土地が見捨てられて広場になってしまったり、再びスラムが構築されるとしても火事に懲りた住民が出ていってスカスカになったりする。

女性の家を覚えていて、数年後に「まだいるのか?」と思って訪ねて行くと、彼女が住んでいたバラック小屋どころか、その周辺がすべて撤去されていたこともある。

そうやって想い出が消えていくと、急に失った想い出が大切なもののように思うようになり、最初は何とも思っていなかったはずなのに悲しくなってしまったりする。

自分の生きていた瞬間が失われて失望し、そして忘れられなくなっていく。

以後、「失われていく」という経験を私は何度も何度も、まるで無限地獄のようにそれを繰り返すことになる。私の人生は「出会った人、出会った場所を片っ端から失う人生」だったと言っても過言ではない。

「懐かしいな」と思って後で訪ねても、もうその女性には会えない。そのバーもない。その場所もない。何気なく別れてしばらくすると、まるで最初から出会っていなかったかのように何も痕跡が残らない。

私は旅人だ。同じ場所にずっといるわけではない。あちこちをさまよい歩きながら、また時間を置いて戻ってきたりする。しかし、戻って来た時にはもう失っているのである。

女性は同じバーに半年もいない。再会できる確率はかなり低い。ゴーゴーバーは内装も変わり、女性も変わり、名前だけは残っていても昔のバーとは雰囲気も違う。オープンバーは影も形もなくなっていたりする。そして、訪ねたスラムもない。

私は東南アジアに没頭した最初に10年はまったく記録を取らなかった。写真も持ち歩かなかったし、出会った女性の名前を記録することもなかった。

しかし、一緒にいてくれた愛すべき女性たちを忘れていくのがとても辛く感じるようになった。出会った想い出が失われていくのがたまらなく寂しかった。だから、何としてでも私はそれを記録したいと思うようになった。

自分が売春する女たちを愛していたのだというのは、10年かかってやっと私は認識したのだ。さよならも言わないで別れた女たちこそが私の宝だった。別れてしまえば記憶でしか残らない女たちが大事な存在だった。



クロントイでは2017年にも火事が起きている。いったん火が出ると、結構な大火になりやすい。スラムはもともと燃えやすい材質でできている上に、路地は極度なまでに狭く、消火活動がなかなかうまくできない。
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グローバル経済は全世界の貧困を平均化させている

1990年代の終わりから2000年代の初頭、カンボジアの首都プノンペンは街全体がスラム地区みたいなものだったが、中でも西側にあった「ブディン」と北部にあった「トゥールコック」が広大なスラム地区として知られていた。

ブディンはどうなったのか。ブディンのスラムは焼けて消えてなくなった。プノンペンの大地を覆い尽くすような大火事になってスラムを全滅させてしまったのだ。

2017年に確認しに行くと、幽霊団地ともホワイトビルディングとも呼ばれている荒廃したビルこそまだ残っていたが、そのまわりを覆い尽くしていたバラック小屋のスラムは完全に消失していた。

トゥールコック地区はどうなっていたのか。再開発で面影は何ひとつなかった。みんな消えてしまっていた。トゥールコック地区を貫く70ストリートは私がプノンペンで最も愛していたスラムだった。

ここは道沿いに夥しい売春宿が林立していてスラム売春地帯を形成していた場所だったのだが、スラムのバラック小屋は壊されてしっかりした建物が建ち、今ではただの幹線道路の通り道でしかない。

そこからさらに北部に行ったところには「スワイパー」と呼ばれるベトナム人村もあって、児童売春・人身売買・性病が蔓延していた悪名高い売春地帯だったが、そこも今は何もない。

NGO団体が拠点を置いて村を監視しており、かつての邪悪な面影は払拭されている。

インドネシアでは、リアウ諸島のそれぞれの島の山奥にも巨大なスラム地区が広がっていて、そこで売春村があちこちに林立していたのだが、ここもまた売春ビジネスが壊滅してしまっており、再訪しても何も残っていない。

スラムが消え去るというのは良いことだ。それは、少しずつであったとしても、それなりに国が豊かになっているという証拠でもある。

もちろん、貧しさは残っている。しかし、貧しいと言っても貧困の度合いはかつてに比べると幾分かマシになっており、人々は「働けば豊かになれるかもしれない」という夢や希望を持てるようになって明るくなった。

住居も「スラム」から「貧困地区」に格上げされた。

一方の先進国では、中産階級の所得が引き下げられて徐々に貧困化している。そして住居も、普通の「住宅地」から「貧困地区」に格下げされる場所も出てきている。

欧米では、そうした「貧困地区」があちこちに生まれているが、やがて日本も「貧困地区」が生まれるのは確実だ。日本だけ貧困地区がないというのはあり得ない。

途上国はスラムが消えてひとつ上の貧困地区が生まれる。先進国では貧困層が増えて貧困地区が生まれる。なるほど、グローバル経済は全世界の貧困を平均化させていることに気付く。

スラムの変遷を通して、時代の流れが見える。(written by 鈴木傾城)

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ブディンと呼ばれていた地区。「幽霊団地」はまだ残っていた。

この幽霊団地の裏側は柵で入れないようになっているのだが、雑草が覆い尽くしていて何もない。

この雑草で覆い尽くされていた場所は、すさまじく広大なスラムが広がっていたのだ。しかし、大火事ですべて焼き尽くされて閉鎖された。

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小説『スワイパー1999』です。小説と聞くと、あまり読む意欲が湧かない人もいるかもしれませんが、この小説は売春地帯スワイパーを描写した唯一の小説であり、エピソードのほとんどは実際に遭った事件を組み込み、登場する女性にも全員モデルがいるのでブラックアジアの読者であれば興味を持って頂けると思います。是非、読んでみて下さい)

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