
期待されすぎていくと、本人には重い足かせのようになっていく。成果は評価ではなく「できて当たり前」の前提になり、役割は選択肢ではなく「やるべき義務」になる。できたことは評価されず、できなかったことだけが問題視される。その点、期待されない人は楽だ。見放されているので何もやっても自由だ。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
本人には重い足かせのようになっていく
私のように社会のどこにも属さずにふらふらと生きている人間は誰からも期待されることがない。何をしても褒められることはないが、逆に何をしなくても非難されることもない。たとえ非難されても「知ったことか」で終わる。
良いのか悪いのかはわからないが、誰からも期待されていないのだから気楽で生きられるというのは間違いない。
期待されるというのは、けっこうな重責だ。だが、社会で生きていくうえで、「期待される」という状態は成功の証として扱われる。仕事ができる、責任を任される、頼られる。こうした評価は本人の能力や努力の結果であり、大切な評価対象である。
多くの人は、そこに到達することを目標にする。
だが、期待されすぎていくと、本人には重い足かせのようになっていく。成果は評価ではなく「できて当たり前」の前提になり、役割は選択肢ではなく「やるべき義務」になる。できたことは評価されず、できなかったことだけが問題視される。
要するに、期待が高くなればなるほど、その評価は加点方式ではなく減点方式に切り替わる。
心理学では、人は外部からの期待が大きくなればなるほど行動の自由度を失うことが知られている。周囲が善意で言う「次もできる」「お前ならできる」という言葉は、その人の逃げ場を塞ぐ言葉になっていくのだ。
期待されている人は成果を出し続けるため、周囲からは順調に見える。弱音を吐かず、愚痴も言わず、役割を果たし続ける。だが、成果を出して評価され続ければ続くほど、プレッシャーが抱えきれないほどの大きさと化す。
こうして、本人すら自覚しないまま、壊れていく人が出てくる。
町田・青線地帯/グッドナイト・アイリーン (セルスプリング出版)
町田・青線地帯にいた台湾やタイの女たちは、どのような境遇の女たちだったのか……。知られざる日本の売春地帯にいた “異国の女たち” の世界を鈴木傾城が描く。
自分自身でも自分に期待していない
最近、私の知り合いでそうしたプレッシャーを負って耐えられなくなって第一線から退いてしまった人がいた。人並み外れた能力がある人だったので、気の毒に思えた。世間から評価され続けて成果を出すのは相当な重責だったのだろう。
この人の人生から見ると、私の人生はいかに気楽なものだったのかよくわかる。
私自身は誰かから期待されたり評価されたりする人生ではなく、まして何らかの責任を社会や人に負うということもなかった。私は20歳で東南アジアの歓楽街に入り浸り、早い段階で社会的レールから外れたわけで、評価される前に軽蔑される人生であったとも言える。
外から見れば完全なドロップアウトである。世間はドロップアウトしてしまった人間に期待することなどまったくないわけで、社会に出た早々に私は世間から見放されてしまったとも言える。
そのため、逆に私は社会に対してほとんど責任を負わないまま、好きに生きることができるようになった。
ジャニス・ジョプリンの歌の歌詞で「自由とは別の言葉で言うと、何も持たないこと」というものがある。本当にその通りで、私は何も持っていなかったが自由だった。
若い頃、よく他人の「夢」を聞いた。将来は有名になりたい、金持ちになりたい、これを実現したいと、いろんな人がいろんな夢と野心を私に語った。社会も「夢を持て」と若者を鼓舞していた。本屋に行ってもそんな本ばかりだ。
ところが、私は将来の夢もなく、何者かになろうという意思もなく、ふらふらとタイの歓楽街をうろついて野良犬のように生きることに終始していた。たしかにそれは自分の望みではあったが、同時に「こんな生き方をしていたら破滅する」という気持ちも強くて、充実した気持ちでいたわけでもない。
それでも、社会からは何も期待されず、何の役割も担わされず、完全に蹴り出されていたので、社会的プレッシャーがほとんどなかったことだけはたしかだ。何しろ私は、誰の期待にも応えなくてもよかったのだ。
自分自身でも自分に期待していないのだから、これほど自由なことはない。
【小説】背徳区、ゲイラン
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役割を果たせなかった人に対する叱責
何かを期待されている人は、その期待に応えるために生きなければならない。かならず結果を出す、仕事が早い、空気が読める、責任感が強い……。こうした特性が周囲に共有されると、その人は特定の振る舞いを期待される存在になる。
ここで重要なのは、役割が能力の説明から行動の強制へと変わる点だ。できるから任されるのではない。任されるから、でき続けなければならなくなる。これが、その人の重い「足かせ」となる。
本人は評価されていると感じ、周囲も信頼しているつもりでいる。だが、じわじわと本人の行動の選択肢が削られていく。断る、休む、手を抜くといった選択が許されなくなる。役割を守ることが優先され、自分の状態は後回しになる。
やがて「自分はこういう人間だ」という認識が、「自分はこうでなければならない」に置き換わっていく。ここで失敗すると、役割を裏切ったという感覚が生まれ、自己評価が急落する。
百点か零点かの極端な認知が強まっていき、部分的な失敗であっても存在全体の否定し、「もっと、ああすればよかった」「こうすればよかった」と、自分を強く責めるようになっていく。
周囲も、期待されてきた人が調子を落とすと、「らしくない」「どうしたのか」と言う。この言葉は励ましではない。役割を果たせなかった人に対する叱責でもある。本人は追い込まれ、無理をしてでも元の状態に戻ろうとする。弱音は吐けない。責任感があるからだ。
結局、ここで壊れていく人が出てくることになる。
あまりにも大きな責務を抱え込み、プレッシャーが増大し、逃げ場が消えたら、壊れてしまっても不思議ではない。これは努力や根性の問題ではない。すべての人が最後まで役割を全うできるわけではない。
圧倒的「病み垢」女子
圧倒的な「闇」を体現するのが「やむやむさん」だった。オーバードーズを「人生そのもの」と語り、幻覚に心地よさを感じ、度重なる救急搬送にも「怖くない」と笑う。
期待されなければやりたい放題できる
表社会で大きな責任を負って生きている人は、常にそうした重いプレッシャーを背負って生きているのだと思う。日本では、約15人に1人が生涯のうちに一度は鬱病を経験するというデータもある。
鬱病にかかった人の約4分の1程度が医療機関を受診しているが、残り4分の3は未受診のまま放置されている。なぜ医療機関に行かないのかというと、「自分はこんなことで壊れるはずがない」「しっかりしなければ」と、ますます自分で自分を追い込んでしまうからだ。
この鬱病が深刻化すると自殺に向かっていく。日本は中年男性で自殺に追い込まれる人も多いが、それだけ大きなプレッシャーに「まじめに」対処しようと無理してきたこともあるのだろう。
まじめで適応力が高く、周囲の期待を正確に読み取れる人ほど壊れたときの症状は深刻になってしまう。期待に応えることが習慣となっていて、無理してでもやろうと自分を叱責しながら追い込むので、逃げ道を自分で封じるカタチとなる。
社会はそうした人を称賛するが、役割を果たし続ける人が疲弊して壊れても責任を取ってくれるわけでもない。それは本人の問題として処理される。多くの場合、異変が起きたときは、もう取り返しのつかない段階に入っているのではないか。
これまで社会に対して何ら責任も負わずに野良犬のように生きてきた人間が何か言えるとすれば、「期待される人生や責任を負う人生もいいかもしれないが、期待されず責任も負わないで生きる人生にも面白いところがある」と自信を持って言えることだろうか。
何しろ、誰からも期待されていないので好きなことはやりたい放題だ。たとえば議員になったら誰かとラブホテルに行ったくらいで非難轟々だが、野良犬みたいになったら毎日、それこそ違う相手とラブホテルに行こうが誰も何も言わない。最初から見捨てられているからだ。
酔っ払って全裸になって路上でひっくり返っていても、迷惑がられて馬鹿にされるだけで、それ以上の何かはない。それこそ何かで逮捕されたとしても、誰も注目すらしない。期待されていないから、逮捕されても痛手でも何でもない。
アンダーグラウンドで生きていたら、何でもできる自由がそこにある。
そういう生き方もあるので、責務ある人生で押しつぶされても別に悲嘆することもない。アンダーグラウンドにはアンダーグラウンドの面白さがちゃんと用意されているので、押しつけられた期待も責任もゴミ箱に捨てて野良犬になって楽しめばいい。
あなたが開き直るのを、向こう側で待つ。






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