外国は、環境も文化も常識も違う。そうすると、日本の国内で築き上げてきた考え方がまるで通用しないので、どうしても足をすくわれてしまう。外国には想像もしない文化がある。
考え方も、常識もまるで違う国もある。場合によっては日本と180度違うこともしばしばだ。しかし、私たちはいちいちそんな外国の文化を知らない。
そんなところに降り立って、何も分からないまま、何かを決断しなければならない状況というのは往々にしてある。判断を下した結果、正しかったこともあれば、間違っていることもあるだろう。
判断を間違ったとしても、それは当然だ。何も分からないで判断したのだから、常に正しい決断が下せるとは限らないのだ。
目の前の人間が信用できるのか。この場所にいていいのか。取引は問題ないのか。進んだ方がいいのか退却した方がいいのか。相手の親切は受けた方がいいのか断った方がいいのか。
その瞬間、瞬間で何かを判断しなければならないが、正確な判断を下せる情報もなければ、理解もない。国外に出ると、そんな状況ばかりだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。
「理屈で決断」と「直感で決断」
あなたなら、判断が難しい状況の中で決断を下さなければならない時、どのように決断を下すだろうか。難しい状況の中で決断を下さなければならない時、人は二種類に分かれる。
ある人は、理屈で決断を下す。
ある人は、直感で決断を下す。
「理屈で決断」と「直感で決断」は180度違う決断方法だ。どちらが正しいというわけではない。
「男は理屈で決めて、女は直感で決める」という人もいるが、男でも直感で決断し、女でも理屈で決断する人がいる。必ずしも性差(ジェンダー)で分かれているわけでもない。
また、普段は理屈を重視する人がある状況では直感で決めることもあるし、その逆もまたある。その人の個性と、時と、場合によって決断は多彩な方法によって為されるはずだ。
しかし、理詰めで何かを考える人は決断は理詰めによって決まることが多い。直感で生きてきた人は最後には直感に頼る。比重が必ずどちらかに偏る。恐らくこれは、その人の普段の思考能力のクセがそこに出るからだ。
理屈で何かを決断するタイプは直感で何かを決めるタイプを嫌う。直感というのは往々にして間違うことがあると思うからだ。しかし、何かを決める際に、十分な情報や判断材料や時間が足りない時、理詰めで決断するに値しない状況は多い。
そのため、どちらが良い悪いという話ではない。どちらにしても、それが正しい決断になることもあれば、間違った決断になることもあるので、これは優劣を付けるものではない。自分の好きな方を選べばいい。
あなたは、「理屈で決断」と「直感で決断」のどちらが居心地が良いだろうか?
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どちらを優先するクセがあるか?
たとえば、治安の悪い地区で道に迷ったとする。その時にひとりの男が出てきて「道に迷ったのか? 俺について来い」と声をかけてくれたケースがあったとする。流浪する旅人にはよくあるシチュエーションだ。
どうするか?
見知らぬ場所で出会ったばかりだ。その男の情報は何ひとつ持っていない。外観や態度がよほど特徴的ではない限り、彼が悪人なのか善人なのか判断する情報はない。しかし、どうするか判断しなければならない。
その時、心の中で「根拠はないがこの男は善人のような気がする」と直感が訴えている一方、「声をかけてくる見知らぬ人間はしばしば悪人である可能性があるので、この男も悪人かもしれない」と理屈が訴えていたとする。
「善人のような気がする」と「悪人かもしれない」では、真逆の反応だ。
その時、あなたなら直感が訴えるものと、理屈が訴えるものどちらを優先するだろうか。信じるかどうか、ついて行くかどうか。これはどちらが正しいという問題ではない。だから、人によって決断は分かれる。
私自身は「直感で決断」するよりも「理屈で決断」するクセがある。
それが正しかったこともあれば間違っていたこともあるので、決断に至るプロセスがどちらであっても導き出された決断が100%正しいわけでも間違っているわけでもないということを知っている。
私は大体において理屈と直感が乖離した時には理屈に従うのだが、それでも理屈に固執することは避けている。考えすぎると深読みや曲解が生まれて本当の姿を大きく損なう可能性もある。
「よく考えて、答えを出せ」と日本では言われるが、よく考えれば考えるほど迷宮に落ちていくこともあるのだ。
1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから
問題は「決断を下した後」にある
情報や判断材料がない時に導き出された結論は、いくら理屈を積み上げていったとしても不確実である。それはあやふやな土台の上で出した結論だから間違っている可能性がある。
では、情報が溢れるほどあったら、正しい解答につながるのか。それが絶対にそうだとは限らないのが興味深いところだ。
たとえば、株式市場でも、株価・企業動向・財務・相場の動きを何もかも知っているのは証券会社の社員だ。では、証券会社の社員が金持ちなのかと言えば、まったくそうではない。
なぜか。情報を集めれば集めるほど、買う理由も買ってはいけない理由も同じくらい見つかるからである。情報が集まれば集まるほど、全体像がぼやけて逆に見えなくなってしまう。大量の情報が判断を錯綜させる。
インテリになればなるほど、理屈で考え抜いて出した決断は直感で出した決断よりも優れていると思い込み、直感を徹底的に排してデータや資料を鵜呑みにする。しかし、そのスタンスが常に正しいわけではない。直感で出した結論の方が結局は正しかったりすることもある。
私は、「理屈で決断するか、直感で決断するか」は個人の個性であると思っていて、実は最初はそのどちらでも問題ないと思っている。世の中の様々な事象は最初から十分な情報や判断材料が与えられていないことが多い。そうであれば、自分なりの慣れたやり方で決断をするのは自然なことだ。
しかし、問題は「決断を下した後」にある。
決断を下してしばらく経つと、多くの情報や判断材料がどんどん集まってくる。集まってくる判断材料を吟味して、最初の決断が正しいのであれば問題ないが、場合によっては最初に下した決断が正しくないことが判明することもある。
ここからが勝負なのだ。最初の決断が正しくないと分かった時、その時に冷静になって最初に下した決断を軌道修正するか、完全に破棄して意見を覆す勇気が必要になってくる。その軌道修正は、直感ではなく理屈を積み上げた上で為されるべきだ。
決断は、最初の入口は「直感での決断」であっても、進捗以後の軌道修正は「理屈での決断」であるべきというのが私のスタンスである。つまり、直感で決断する人であっても、最終的には理屈で考えることや理屈での決断も必要になってくる。
このスタンスはすべてに応用できる。ビジネスにも応用できるが、もちろん恋愛にも応用可能だ。
出会った相手が自分の愛に値する人間かどうかは、冷静に理詰めで結論を出しても直感で結論を出してもいい。
問題は、付き合っているうちに多くの判断材料が集まったら、そこで決断が正しかったかどうかきちんと理屈で考え、最初の決断が間違っていれば軌道修正することだ。その積み重ねが大切ではないだろうか。(written by 鈴木傾城)
決断は、最初の入口は「直感での決断」であっても、進捗以後の軌道修正は「理屈での決断」であるべきというのが私のスタンスである。つまり、直感で決断する人であっても、最終的には理屈で考えることや理屈での決断も必要になってくる。
うちの嫁さんの直感は鋭いですよ。でもその直感は半分くらい間違ってるんですけどね。その間違った直感が思い込みで強化されるので怖い。直感と思い込みで生きている女です。
直感てどこに由来するんでしょうね。その人なりに一生懸命理詰めで考える事ども、思考の経緯道筋の、どこか知らんが外から来るのか?あるいは直感と命名してはいるもののその判断に至るまでのオノレの思考、理屈を言語化客観視するのが不得手なゆえにあたかもその道筋がなかったかのように、突如閃いたように感じているのか?
まことの閃き、ましてや啓示なんてことはあるとも言えないし無いとも言えないモンだと思うので、オノレの経験と知識を総動員して一生懸命客観的に言語理屈で考えるのが「まずの話」だと私は思っているのですが、いやだけど…と人を駆り立てる判断、衝動は(理屈じゃない、とかね・笑)いかんともし難いことがある。
きっとひととおりでないだろうその正体は、それに従った「結果」によってしか知れないことかな、と思います。できれば翻弄されたくはないものです(汗)
これは株式投資の世界でも同じですね。
四季報を見ても割安だし、復配したのに考えられない値下がりを連日されると知らない悪材料が出たのかと考えます。3日間で100円も売り込まれれば、3万株持っていると300万円の評価損が発生し、それでもまだ我慢していると600万円の評価損までになると頭を抱えてしまいます。
ここで売れば600万円の損失確定になりますが、現物で持っている分には無期限で頑張れますから非常に気分の悪い状態に耐えていると今度は200万円の評価益になっています。
わずか1か月余りで800万円も上下に動くのですから、タフな神経を持っていないと株式投資は地獄の責め苦です(笑)。
結局、未来は不確定なので、理詰めで間違いのない決断ができるケースは案外多くありません。不確定要因や未知要因のリスクをどの程度に見積もるかは理詰めでもある程度できるけど、それを織り込んでgo or notを決める際にはどこか直感というか感覚的なものが作用する。自分は理詰めで考えられるのだ、私は直感を信じるのだ、どちらにせよ、片方を重視することそのものが危険だと思っています。
決断した後こそが大事という鈴木さんの見解はとても正しい、と思う。特に人生にまつわる何らかの決断を下した場合、その決断を「正しい」ものにするための決断後の努力こそが成功・不成功を決めるし、「間違っていた」としても、その損失を最小限にして何とか自分として納得できるレベルに持っていけるかもやはり決断後の努力。もちろん復旧不能、損失甚大なら手遅れにならないうちに撤退する決断も必要。
ま、それが色恋がからむと理屈も直感も鈍ってしまう、というのもよくあることですが。