
自由が尊重される社会では、次はどう動くのか、どう生きるのか、自分で何でも決めていい。しかし、代わりにその結果は自分ひとりが全面的に責を負う。何を選んでどう生きてもいいが、悲惨な結果になっても、結果はすべて自己責任となる。それは、実はとても苛烈で厳しい社会でもある。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
組織にいながら「個人」の状態
日本もいよいよROE経営が当たり前の時代になっている。ROE経営というのは、いかに株主資本が利益を上げたかを軸にして経営を評価するものだ。会社の利益は内部留保という形で示されるのだが、内部留保を増やすためにはコストはつねに削減しなければならない。
コストの中で重いものは、言うまでもなく人件費である。だから人件費は恒常的に削減される。つまり、低賃金になりやすく、リストラされやすい環境になる。この傾向は、すべての日本企業で起こっている。
終身雇用など事実上、消滅したも等しい。
今の会社を辞めて次の会社に勤めたとしても、すべての会社がリストラや非正規雇用を常態化させているのだから、その新しい会社でもまたリストラされる可能性がある。いや、そもそも一度リストラされたら二度と正社員になれない可能性すらもある。
組織にいても、それはかつてのように強固な結びつきではなくなる。必要がなくなればいつでも切れる結びつきだ。実力主義も定着しており、昔の強固な仲間意識も希薄となり、絆はいとも簡単に切れていく。
そのため、組織にいながら「個人」の状態となる。
いつでも会社の都合で切られるので、もう組織に寄りかかることができない。誰にも頼ることができない。自分の面倒は自分で見なければならない。これは、言ってみれば「安定を失う動き」でもある。
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誰にも頼ることができない
日本人の大多数は雇われて生きている。会社に給料をもらいながら生きている。こうした生きかたは、高度成長期には非常に効率の良い生きかたでもあった。
日本の会社は温情があった。基本的には終身雇用だったので、目覚ましい働きをしなくても、ただ会社に居るだけで生活が安定して人生が読めた。黙々とまじめに勤めていれば食いっぱぐれがなかった。
自分の人生が10年後にはどうなっているのか、20年後にはどうなっているのか、会社にいる10歳、20歳年上の人間を見ればわかったのだ。
波乱がないというのは平凡で面白味がないということでもある。だが、それでも安定した生活が保証されているというのは、何にも代えがたい幸せでもあったはずだ。明日はどうなるのかわからないような人生では、ゆっくり眠ることもできない人も多い。
しかし、このサラリーマンでいることの安定と安心は、日本1990年代からのバブル崩壊でゆっくりと崩れはじめ、2000年代に入ってから急激に悪化していった。
サラリーマンであることは、安定にも安心にもつながらなくなっていった。日本企業もグローバル化の波に洗われ、業績が悪くなると容赦なくリストラをするようになっていった。
一度そうなると、社会はけっして後戻りしない。
企業はすでに非正規雇用とリストラをするのが当たり前の体質となったので、サラリーマンをしていれば生活が安定するという時代に戻ることはなくなった。誰にも頼ることができない時代になっていたのだ。
そして、この「誰にも頼ることができない時代」というのは、別のところでも強化されていたのだ。別のところというのは、社会で起きていた「個性の尊重」の動きである。
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個性を重んじるようになった社会
現代社会はひとりひとりの個性を尊重する社会になっている。個性を尊重するというのは、どういうことか。それは、「どんな個性でも受け入れる代わりに自分の選択した個性によって起きる問題は自分で責任を取れ」ということである。
「このように生きよ」「このような格好をせよ」という確固たる規範があれば、それを守れば社会は守ってくれる。逆にそれを守れないなら排除される。
個性の時代は「このように生きよ」「このような格好をせよ」と言わなくなって自分の個性に合わせて好きにしても良くなりつつあるが、そうなると、自分が選択したものは良くも悪くもすべて自分に返ることになる。個性は責任を伴うのだ。
現代社会は「個性の時代」とも言われている。インターネットやSNSがあまねく浸透し、ユーチューブやインスタグラムのようなツールで、自分の個性を最大限に発揮した人間が注目される時代だ。
注目されるには個性が輝いていなければならない。この個性は、自分のアイデンティティを思い切り自由に表現することで生まれる。
個性というのは、ファッションだけを指すのではない。外観もたしかに個性のひとつなのだが、個性とは独自の生きかたや独自の表現や独自の考えかたによって生まれてくるものでもある。
自分なりの生きかたをしている人が強い個性を生み出すのだ。ところが、それもまた「誰にも頼れない時代」の要因ともなる。「自由に生きて良いが、その結果は自己責任」が基本にあるからだ。
社会の規範が緩くなればなるほど価値感はバラバラになる。「どの価値感で生きてもいいが、その結果は自分で責任を負う」のだ。自由になったからこそ、誰にも頼ることができない時代になっていたのだ。
非情な社会になったのではない。私たちが個性を重んじるようになったから、「それでは結果も自分で面倒を見よ」ということになっただけだ。
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それは非常に苛烈で厳しい社会
今や家族も解体傾向にあり、結婚も減少している。なぜか、ここにも「個性の尊重」があるからだ。互いの個性を尊重すると、価値感が違うので共存ができないことが起きがちだ。個性が邪魔して、結びつきが固まらない。
言うまでもないが、個性が強過ぎる人は必然的に孤立する。それでも個性は「尊重される」ので、個性重視の現代社会は必然的に「個人化」していくのを避けることができない。
個人化が極度まで進めば家族は成り立たない。さらに、好きに生きるのであれば結婚する意味もないと考える人が増えていくのでとめられない。私たちは会社も、家族も、自分を守るものではなくなったことに気づかなければならない。
私たちは今、否応なしに個人化した。別の言いかたをすると、社会は分断化した。その結果、自由は得たのだが誰も頼りにできない時代になった。会社では切り捨てられ、家族は解体、結婚も成立しない社会に生きる時代になった。
次はどう動くのか、どう生きるのか、自分で何でも決めていい。だが、代わりにその結果は自分ひとりが全面的に責を負う。そのため今後の社会では、個人の能力が生き残れるかどうかの大きな要素となる。
誰もが懸念するように、それは非常に苛烈で厳しい社会でもある。社会が分断化に向かっている以上、自分を頼りにするしか生きられない。
そして、最終的には個人の能力をいかにして収入に結びつけるかということを常に考えなければならない社会になっていく。
今後は、それができるかどうかで、生き残れるかどうかが決まってくる。今までの日本社会が至れり尽くせりで甘かったという話もあるが、社会が変質した今、もうかつてのような甘さは期待できない。
あまり誰も気づいていないが、個性を尊重する時代というのは社会から突き放されていることでもあるのだ。分断化を受け入れた私たちは、自由を得る代わりに安定を失う。そういうことだ。

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