生まれつきの能力や才能は、「発掘」されないと、本人すらも気づかないまま眠ったままだ。本当は超人的な能力を発揮できるはずの人が、何もできないで人生を終わらせたりする。それは、往々にして、自分の才能に気づかず「自分の不得意な分野」で生きようとしているからでもある。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
これが本当に自分の人生なのか?
天職を得ると、没頭して仕事ができる。そして、没頭することがよりパフォーマンスを向上させる。パフォーマンスが向上することによって、得手がより得手になって、それで生活することが可能になる。
世間体が良い仕事や、給料が良い仕事や、派手な仕事が良い仕事なのではない。自分の得意が発揮できて、没頭できて、それで食べていける仕事が「自分の仕事」である。そのような天職を得ると、仕事が生きる目的になる。
しかし、誰もがそういう仕事についているわけではない。というよりも、大半は自分の得意や情熱とは無関係な仕事に従事しているのかもしれない。仕事に対する意義や充実感は乏しく、毎日が単なる義務の連続となる。
目覚めた瞬間から、嫌々ながら通勤し、時計を眺めながら一日が終わるのを待つ。苦しいと思う。こうした人々にとって、仕事は「生きる目的」ではなく、「生き延びる手段」に過ぎない。それはやがて、自尊心や幸福感をも損なっていく。
彼らがそうした仕事についているのは、たまたま仕事を探しているときに、その仕事で雇われたからである。最初から自分には合わないかもしれないと思いつつ、生活費を稼ぐために「しかたなく」その職についた。
そして、「これが本当に自分の人生なのか」という虚無感を抱えながらも、延々とその仕事を続けて、心を萎縮させている。
不得手で無関心な仕事で生きていくほど虚しいことはない。そうであれば「得手・不得手」を早いうちに見極め、何があっても得意分野で生きていくのが合理的な生きかたであるといえる。
だが、得意分野で生きていく前に、自分は何が得意なのか、自分にはどこに才能があるのか、それすらも気づかないこともあるのだ。他人から見ると「この人はあきらかに、ここに才能がある」とわかるのだが、本人だけが気づかない。
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気づかなければ目覚めない
得意というのは、往々にして「生まれつきの才能」が左右するのは誰もが知っていることだ。運動能力、知的能力、芸術センス、言語能力……。遺伝子的に何らかの有利なものを持っている人は、遺伝的な能力によって他者を凌駕できる可能性がある。
ただ、生まれつきの能力というのは、気づかなければ目覚めない可能性もある。
猛烈な「運動能力」を持っているのに、本人もまわりもまったく気づかずに怠惰な生活をして肥満して能力発揮できなかったり、恐るべき「知的能力」を持っているのに、貧困のせいで教育を受けられずに能力が発揮できないこともある。
子供が持つ才能を伸ばすのではなく、親のエゴで子供の才能を無視して何かを強制すると、子供も生まれ持った独自の能力を生かすことができずに腐ることもある。
芸術的なセンスがあるのに、芸術の素地のない両親が芸術の道に行かせなかったり、言語能力が抜群なのに、それとまったく何の関係もない仕事についていたりすることもある。
生まれつきの能力や才能は、「発掘」されないと、本人すらも気づかないまま眠ったままだ。本当は超人的な能力を発揮できるはずの人が、何もできないで人生を終わらせたりする。それは、往々にして、自分の才能に気づかず「自分の不得意な分野」で生きようとしているからでもある。
また、「生まれつきの才能」に自分では気づいていても、別の関心があって才能を自ら捨てるケースもある。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」というのは、才能を磨かない結果として起きている事象でもある。
自分の中にある「信じられない才能」は発見されないと、誰も気づかないし、気づいてもそれは原石なので、磨かないと社会に認知されるほどにまで至らない。
能力や才能を自然と発揮できるようになる人もいるが、そうでない人のほうが多い。それが「発見」できないと、せっかく持っていたはずの能力は死んでしまう。
もし、やりたくもない仕事をして、日々を流されるように生きているとしたら、間違いなくそれは自分の中の「信じられない才能」を埋もれさせている。自分の能力を発見できていない。
何か貴重な才能を持っているのに、自分がそれに気づいていないので、埋もれさせてしまっている。
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何が得意なのかを知る重要性
運動能力に秀でた遺伝子というのはある。知的能力に秀でた遺伝子というのもある。現在、科学は遺伝子の研究を急ピッチで進めているが、研究がもっと進んで分子レベルで遺伝子が解明されるようになったら、とんでもないことになるかもしれない。
運動能力から言語能力、音楽能力まで、人類に貢献するさまざまな才能の中で「自分は何が秀でている」のか、自分でも知らなかったことが、すべて正確にわかるようになるからだ。
運動能力に秀でているとしても、あるいは音楽能力に秀でているとしても、本人がそれにまったく関心がなければ、その才能は使われることはない。本当は世界を変えるかもしれないほどの才能であっても、本人が眠らせるのだ。
いや、そもそも本人がその才能を知っていたら俄然、興味を持ち、才能を伸ばしていったかもしれないのだが、本人が気づかず、第三者もそれを指摘しなければ、それは眠ったままなのだ。
それは本人のみならず、人類の発展から見ても「もったいない」ことなのだが、往々にして、そういうことが起こる。才能や能力があるとわかっていても、使われないまま終わるのだ。
あなたも、そうかもしれない。
遺伝的才能と自分の関心が合致すれば、それこそ凡人を凌駕する結果を残すこともできるようになる。また、自分の子供に何の才能があるのかを知ることができれば、その才能を伸ばして上げることもできる。
今まで自分が何が得意なのかまったく分からず、わかっていても錯覚だったり、願望だったりすることもある。だが、自分の得意な分野が遺伝的にどこなのか、それを正確に解析できる時代が、いずれやってくる。
ただ、そういった科学の進歩の恩恵にいつ浴せるのかは誰にもわからない。倫理的にも道徳的にも遺伝子を丸裸にすることが問題視されて受け入れられない可能性もある。
だとすれば、どうしたらいいのか。
自分の才能は、自分で見つけるしかない。今の生きかたや仕事が自分のやりたいことでも得意なものでもないというのであれば、まずは立ちどまらなければならない。そして、「自分の生まれつきの才能はいったい何なのか」を捜す必要がある。
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有利な才能は自分でも気づかない?
生まれ持った才能はその片鱗が表に表れることもあるが、最初は熟練されていないので見過ごされることも多い。
中には子供たちを注意深く見てきた教師や、ある方面で慧眼を持つ人がいて、秘めた能力を見抜く人もいるが、ほとんどの場合は誰も気づかないのが普通だ。他人どころか自分自身も気づかないことも普通にある。
たとえば、音楽が色で見えたり、文字にニオイを感じたりする「共感覚」を持つ人がいる。この人は自分がそうであっても、他人もそうだと思っているので、子供の頃はそれが特別な感覚であるということに気づかない。
共感覚は一般人にはない非常に変わった感覚なのに、本人から見ると音楽を聞いて色が見えるのが日常なので、それが普通ではないという事実に気づかないのだ。
学校でも協調性がなく、落ち着きがなく、他人とうまくコミュニケーションを取ることのできない問題児の子供が、じつは知能指数140の天才児(ギフテッド)であったというケースも多い。
天才であるがゆえに他人と歯車が合わないのだが、本人もまわりも「天才であるがゆえ」の部分に気づかないので、ただのコミュニケーションも取れない困った性格と思って爪弾きされて社会から脱落してしまう。
誰でも遺伝的に有利な才能を持っているのだが、気づかれないことが多い。気づいたときには驚愕するかもしれない。
ただ、遺伝的に有利な才能が「あとで」見つかったからといっても、そのときは、すでに違う分野で長く生きていて、自分もその分野に関心がなければ、当惑するばかりで、今さらどうしようもないということもありえる。
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知らなければならないのは自分の能力だ
本来であれば、「遺伝子的に有利」なものを伸ばしていくことによって、他人よりもはるかに楽に普通の水準を超越できる。そして、それを磨くことで、普通の人よりも早く、恐るべき結果が出せる。
つまり、他人よりもはるかに楽に普通の水準を超越できる方法があるとしたら、もともと備わっている「遺伝子的に有利」なものを、誰よりも早く見つけて磨いていくことなのだ。
人が容易にできないのに、自分には何の苦もなくできる「才能」を早くから見つけることができた人は幸せだ。子供のころはまわりが、大人になれば自分が、それを見つけることができれば、それは非常に運が良い。
ただ、30代になっても、40代になっても、才能に気づかないよりも、気づいたほうが有利である。埋もれている才能が発掘されるというのは特別な経験であり、社会のためにも誰もがそうあるべきだ。
自分の能力が低い分野でいくら努力しても、ものになることはない。努力すれば、ある程度まで能力を伸ばすことができることはできるが、ほどほどで終わってしまう。努力のわりには、たいして能力が伸びない。
ところが「遺伝子的に有利」に当たれば、努力すればするほど、能力が飛躍的に伸びていく。そして、その努力が苦にならない。
自分が有利な分野に潜り込み、他を切り捨て、才能を伸ばし、その世界で生きるのはもっとも合理的な生きかたとなる。
自分が知らなければならないのは自分の能力だ。どの分野に遺伝的才能があるのかを知ることによって、劇的な能力を発揮することが可能になる。今からでも遅くない。それを見つけることによって人生の限界を突破できる可能性が見えてくる。
>学校でも協調性がなく(中略)社会から脱落してしまう。
本当に能力があれば学校行かなくたって大人になって食っていけるでしょう。台湾のオードリー・タンは14歳で学校行くのやめたというし。
私の身近にも、中学一時不登校でも高校受験したら偏差値70の高校に受かった者がいますので。
励みになる記事でした。有難うございます。
私は子供の頃から作家になりたかったです。
母の強い希望で地方公務員になりましたが、虐めとストレスで病気に。
退職して精神障害者として引きこもり、ブログを書きまくって幸せです。