二十歳《はたち》の頃、何気なくタイへ旅行に行った。はじめての海外旅行でひとり旅だった。見るもの聞くものが何もかも珍しく、旅に有頂天になった。
南国の太陽や文化や食事は慣れれば慣れるほど心地良いものとなってきた。最初は健全な旅行をしていたが、ある日バンコクのパッポンに足を踏み入れた。パッポンはアジアでもっとも有名な歓楽街である。
タイに行ったのなら、ここを訪れないと片手落ちだと思ったのだ。ただ半裸で踊り狂う女たちを見て、話のネタにでもしたかった。
パッポン……。
社会見学のつもりで、恐る恐るゴーゴーバーに向かう。入った店は『リップ・スティック』である。女たちが踊っているのを見ても何も思わなかった。まだ若く所持金も乏しかったので、ぼったくられる心配だけが頭の中を空回りしていた。
楽しもうなどとは、まったく思わなかった。パッポンがどういうところか分かったら、一刻も早くここを出てゲストハウスに戻りたかった。パッポンはぼったくりの横行する怖いところだと聞いていたのだ。早く帰って安全になりたいと、それしか頭になかった。
当時の私は女から女へと渡り歩く浮気な男には、良い感情などまったく持っていなかった。むしろ、セックス・アニマルと陰口を叩かれている一部の日本人旅行者を軽蔑していた。今では信じられないのだが、若い頃は絶対にこんなところへ出入りしたくなかったのだ。
そんなとき……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア タイ編』にて、全文をお読み下さい)
何度も読んでいる記事ですが、改めて「なぜ自分は歓楽街に居場所を見出してしまったのだろう」と考えてみました。(お話とは別方向ですが、ハイエナになった発端という共通点でお許しください)
分かったのは、私はまだ十代の頃から「夜の街」を見て回るのが好きだったということでした。綺麗事を言うつもりはないので、そこに女性がいること、売春を通してそうした女性と刹那の時を過ごすことも大切で欠くことのできないものです。が、それだけなら日本流のスナックやキャバクラに行ったりエスコートサービス(デリヘル)を使ったりすればいいのに、それは大して好きでないというか興味がわかない。タイでもマッサージパーラー(日本で言うソープランド)に行きたいと思わない。
東南アジアの歓楽街がいいのは店の出入りも気軽で好きなように夜の街を歩ける、そこに女性がいることでその楽しさが倍化する、そういうことなのだと思います。知らなかった女性と出会い、なにがしかの関係を築いたり消失したりするのも夜の街だからこそ拘っているように思えます。
もちろんそこにはたくさんの光と陰があります。いい体験も悪い体験もします。虚飾の中でもほんの少し心が通ったりすることが宝物のように思える一方、性欲を満たすという即物的な充足感も欲しがっています。賑やかな一方で、いろいろなところからくる重苦しさもそこにはあります。でも、それらをすべて込みで自分にとっての夜の街があるのであり、自分にとってはそれこそがいつまでも身を置いて眺めて飽きないものだったようです。それがタイやカンボジアにあった。そこにいる彼女らはもちろん大半が来たくて来ているわけではないから少しでも優しくしようと思うだけで手荒に扱うなど考えられない。それも自分がいたい夜の街の主役である彼女らへの申し訳なさから来ているのかもしれない。
自分がこうなったルーツのようなものがはっきりした一方、どうにも叙情的ではないですね。でも、もし自分の発端に甘い出会いと辛い別れがあったなら早々に歓楽街から足を洗っていたように思います。逆に夜の街に生涯惹かれ続けている限り、死ぬまで変わらない気がしてきました。 (ky)
マイさん自身は、よく白人が幼子を連れて歩いている 契約期間結婚というつもりだったのかなあ とも思いましたが
果たして
強烈な体験だったのですね、男と女は難しい
どこでどう好きになったり惚れ込んでしまったり
所詮生理現象のひとつなのか
本記事、読みました。
古い記事ですが、ブラックアジアの原点と傾城さんの原点を垣間見た気が致します。