私たちは、日常の中で常に「選択と決断」を迫られるのだが、この「選択と決断」は、ほとんどが経験とカンによって成し遂げられている。経験が長くなればなるほど、正しい選択になるし、カンが良くなればなるほど決断が正しくなる。
しかし、経験やカンに頼るのではなく、これを機械的かつ合理的に行う方法はないのかと思うこともあるはずだ。
たとえば、人は一生のうちで何人もの異性と付き合って、結婚に至るのだが、結婚相手というのは往々にして「妥協」の産物でもある。100%完璧な人はいないので、誰と別れて誰と結婚するのが最適なのかを、どこかで選択し、決断しなければならない。
結婚するまでに10人の人と付き合うと上限を決めて、途中で良い人が現れたら、その人と結婚したいとする。仮に2人目の人で「結婚してもいい」と思う人がいたとして、その人に決めたら、残りの8人の人とは会えない。
そうすると、会わなかった8人と選んだ1人は比較のしようがないわけで、本当に2人目で妥協していいのかどうか考えてしまうだろう。
もしかしたら、選んだ2人目よりも、もっと良い人が会わなかった8人の中にいるかもしれない。しかし、この8人に会うには「結婚してもいい」と思う2人目と別れなければ次にいけない。
別に結婚相手だけの話ではない。
真夜中の歓楽街でも、1日に10人の女性と話す機会があるとして、その中のひとりを選ぶとする。会うのは同時並行ではなく、ひとりひとり個別であったとするならば、次の女性に会うためには、目の前の女性を断らなければならない。
仮に仮に2人目の人で「いいな」と思う人がいたとして、その人に決めたら、残りの8人の人とは会えない。会わなかった8人の中には、もっと一緒に一夜を過ごすに相応しい女性がいるかもしれない。
その場合も「どこで選択と決断をしたらいいのか」と悩むはずだ。いったい、どう考えるのが合理的なのだろうか? 実は、興味深い考え方がある。