大阪の「釜ヶ崎(あいりん地区)」は、東京の山谷と並んで、今でも西日本最大のドヤとして名を馳せている。
2014年7月にこのあいりん地区を歩いたところ、昔のようにバラック小屋が並んでいた猥雑なエリアというドヤ街を思わせる姿はすっかり姿を消していた。(大阪。あいりん地区と、新田新町に寄ったので歩いてみた)
「ドヤ」と呼ばれたバラック小屋は、今やビル化して安ホテルに変身していた。
そして、そこに時代に取り残された貧困層の老人たちが、年金を搾取する貧困ビジネスの業者に取り込まれて過ごしている姿があった。
すでに日本の貧困の姿は変わっている。食い詰めた若者はドヤに流れていくのではなく、繁華街のネットカフェを転々とするスタイルを取っており、山谷や釜ヶ崎に流れ込んでいくことはあまりない。
しかし釜ヶ崎は、いまだに食い詰めた流れ者が最後に向かう社会の闇として存在しているのは確かであり、そこに降り立つと異様な雰囲気が漂っている。
いったい、この釜ヶ崎というのは、どのような成り立ちで貧困街になったのかに関心を持った。