「きれいごと」を押しつける社会に対する反撥と怒りが湧きあがっている

「きれいごと」を押しつける社会に対する反撥と怒りが湧きあがっている

オバマ前大統領時代、アメリカは「ポリティカル・コレクトネス」が極端化していた。これは「政治的に偏見や差別のない言葉や用語を使おう」という優しさと理想の元に始められたものなのだが、これが徐々に人々を苦しめるようになっていった。

なぜか。「ポリティカル・コレクトネス」は先鋭化し、極端化し、しかも社会的な糾弾や吊し上げが伴っていたからだ。

黒人を「黒人」と言ったら差別だと糾弾され、クリスマスに「クリスマスおめでとう」と言ったら差別だと言われたのだ。

なぜ、「クリスマスおめでとう」が差別になるのかというと、それはキリスト教という「特定の宗教」のものであり、それを言うことで異宗教の人たちが疎外されたという気持ちになるからだというのである。

さらに、ポリティカル・コレクトネスは問題があった。黒人が「黒い肌に誇りを感じる」と言うと賞賛されるのだが、白人が「白い肌に誇りを感じる」と言うと「白人至上主義だ、レイシストだ、傲慢だ」と非難されたのである。

つまり、ポリティカル・コレクトネスは、それ自体が偏向していた。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

閉塞感を破壊してくれる候補者

ポリティカル・コレクトネスは「優しさ」から生まれた運動のはずだ。ところが、それは次第に極端に向かって人々を吊し上げる偏屈な運動になっていったのだ。

しかし、ポリティカル・コレクトネス自体を否定することもできなくなっていた。それを否定するということは、すなわち「偏見や差別を容認する危険な差別主義者」というレッテルを貼られるからだ。

誰も好き好んで「差別主義者」であると言われたくない。だから、ポリティカル・コレクトネスの運動が極端に向かっても、誰もそれを止めることすらもできなかったのである。

しかし、人々の鬱積は溜まっており、閉塞感が社会を覆った。下手なことを言うと、差別主義者だと批判され、吊し上げられる。うっかり口を開くことすらもできなくなってしまったのだから「息苦しい社会だ」と人々が感じても当然だ。

確かに偏見や差別をなくすのは正しいことなのだ。誰もその点には反対していない。しかし、それを頭ごしに押しつけて、従わない人間を激しく攻撃するような社会は明らかに行き過ぎだ。

そこに登場したのがドナルド・トランプ大統領だったのだ。自分を攻撃してくる女性を「イヌ」と嘲笑して大統領になったのは、後にも先にもドナルド・トランプ大統領だけだろう。

なぜドナルド・トランプは支持されたのかについては多くの議論があるが、人々のポリティカル・コレクトネスに対する疲労感や閉塞感もひとつの要因であったのは間違いない。

ドナルド・トランプはポリティカル・コレクトネスなどまったく何とも思っていない。それは戦略ではなく気質である。粗野であり危険でもある。「だからこそ」人々は逆にトランプを大統領に押し上げたのだ。

2016年当時、社会の閉塞感を破壊してくれる候補者はドナルド・トランプしかいなかった。

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「きれいごと」をぶち壊したい

2019年6月。CNNは世論調査の結果で「2020年の大統領選挙でトランプ大統領は再選されるか?」との問いに、54%が「再選されると思う」と回答したと報道している。

しかし、選挙は生き物だ。風の吹く方向は常に変わる。

だから、「再選されると思う」が多いからと言って、必ずしもトランプ大統領が再選されるとは限らない。それでもキワモノとして登場したトランプ大統領が思いのほか「健闘」しているのは誰しもが認める事実だ。

リベラル派は「いったい国民はどうしてしまったのだ。なぜ平気で嘘を付き、暴言を吐き、偏見と差別にまみれた人間を支持できるのか?」と呆然としている。

「こんな粗野な人間が支持されることに徒労感を感じる」と感想を述べる人間も少なくない。もし、そう思っているのであれば、世の中の状況が分かっていない。

トランプ大統領が支持されているのは、アメリカ人が長く続いたポリティカル・コレクトネスという「きれいごと」に逆に疲れたからなのである。人々が急に差別的になったわけでも偏見に目覚めたわけではない。

世の中には常に一定数の犯罪者がいるのと同様に、どんな時代になっても「本物の差別主義者」が必ず存在する。しかし、大部分の人は差別や偏見が良くないことくらいは分かっている。

分かっていることを上から押しつけられ、言動を監視され、言葉狩りをされ、「クリスマスおめでとう」と言って糾弾されるような行き過ぎた社会になったから、人々は疲れ果て、嫌になってしまったのだ。

嫌になってしまったらどうするのか。「きれいごと」をぶち壊したいと思うようになって当然だ。アメリカ人は、ドナルド・トランプ大統領を大統領に押し上げるという方法でそれを実行した。

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極端に向かったものは捨てられる

白人至上主義が増えたというのも、ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎが生み出したのではないかと推測する人も多い。ポリティカル・コレクトネスは「白人の逆差別」になっていたからだ。

「白い肌は素晴らしい」と言えば白人至上主義だと言われるのだから、差別意識などまったくなくて純粋に自分の白い肌に誇りを持っている白人が傷ついてもその気持ちは誰でも分かるはずだ。

彼らにとっては、ポリティカル・コレクトネスこそが「自分たちを差別するもの」だったのである。

差別をなくすための運動が、偏向して逆差別を生み出した。

そうであれば、それに気付いた白人の一部が「反ポリティカル・コレクトネス」に向かったとしても心情的にはまったく不思議なことではないように思える。彼らは自分たちを差別する存在と戦っているのだ。

このような社会の動きを見ると、「差別や偏見をなくそう」という美しいものであっても、それが行き過ぎたり極端になったりすると、逆に人々を苦しめ、閉塞感を与え、反撥を生み出す元凶になるというのが分かる。

「差別や偏見をなくす」というのは正しいことであっても、厳密な正しさを求めて言葉狩りを行い、正しい用語を使えなかった人を社会的に叩きのめすようなことをしていたら、間違いなく反撥と怒りが湧きあがるのだ。

極端に向かったものは、何でもそうだが支持よりも嫌悪を持たれて遠ざけられる。最後には理解や支持を失って捨てられる。

極端な「きれいごと」を押しつける社会に対する反撥と怒りが湧きあがっているということにリベラルが気付けないのであれば、リベラルはもう「終わり」だろう。そして、アメリカ人は再びトランプ大統領を選ぶ。(written by 鈴木傾城)

極端な「きれいごと」を押しつける社会に対する反撥と怒りが湧きあがっているということにリベラルが気付けないのであれば、リベラルはもう「終わり」だろう。そして、アメリカ人は再びトランプ大統領を選ぶ。

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